学び 道徳教育について

 道徳教育の教科化が話題になる昨今、その実行には賛否の声があがっている。そこで社会委員会では、そもそも道徳とは何なのか、道徳を教えるとはどういうことかをテーマとして、11月22日に学びの時をもった。

 道徳とは行為規範の総体であり、ある個人の行為を評価し、罰することでますます道徳は強固にされていく。それは社会維持のためであり、人々が誰かを道徳的に評価するとき、それは個人からの非難ではなく、「社会」からの非難として行為者に浴びせかけられることになる。「悪いこと」をした人は罰せられて当然であるという考え方があるが、「違反者」とされた者への愛は必要ないのかと問いが生まれてはこないだろうか。
 少し前に話題になった「心のノート」。その批判の一つとして非道徳の徹底的な排除が挙げられている。「豊かな心」、「友だちと仲良く」、これらの美辞麗句は何の役に立つのだろうか。あまりにも「美しすぎる言葉」は、道徳実践に悩む人間からしてみれば、単なる綺麗事であり、生活から切り離された道徳教育なのである。また「愛国心問題」では、愛する「国」とはなにかという疑問が浮かんでくる。人にはそれぞれの「国」のイメージがあり、何を愛するかは個人の自由であるはずである。その実行には戦時中のような、また教育勅語のような強力に上から押し付けられる教育方法がとられるとは限らない。静かに水面下で、それとは分からない形で進められることも想定しておかなければならないだろう。
 そしてこのような道徳的「正しさ」が決められたのちに起こることは、「そのようにできない者」のパージである。それによって枠の中にいる者たちはつながりを強め、社会は維持されていく。そのような社会にあって、今教育に求められていることは、何だろうか。それは道徳を多面的に思考し続けること、葛藤を体験することではないだろうか。「豊かな心」をもてず、「友だちと仲良く」できないのが人間である。そのような弱さに向き合い、「正しさ」と「誤り」の間で葛藤することこそ、道徳教育に求められているのではないだろうか。イエスの歩みは私たちにヒントを与えてくれる。社会的に罪人とされた女の傍らに座るイエス。見放された者のために尽くすイエス。嫌われている人々とともに食事をするイエス。そこに私たちは、何をみるのだろうか。