「自分を愛する」伝道礼拝
ルカ福音書19:1-10
地元の小学校を卒業後、キリスト教系の私立中学に通いはじめ、2年生の時。学校の友人に「矢吹の顔、デカイの」とゲラゲラ笑われた。内心かなりショックで、それから約1年、マスクをして通学した。途中、駅や電車の中で笑い声が聞こえると、自分が笑われているのだと勝手に思ったりして、自分の顔なのだが、受け入れることができなかった。そこで他の人を馬鹿にして笑うことでいやな気分を晴らそうとした。通学の際、両国駅で下りの千葉方面の電車に乗る中学生や高校生を「あいつらは田舎へ行く、俺は隅田川を越えて、都心の学校に行くのだ。」とバカにしたのだ。今思うと、いやな奴、それが自分だった。
このいやな奴を変えたのが中学から通い始めた教会、いや、主イエス・キリスト。わたしは何故か、教会から離れることがなかった。そのうち通学する際に、マスクをかけるのをやめたのを記憶している。あるがままの自分、デカイ顔の自分を受け入れることができたのだ。
徴税人ザアカイも「いやな奴」、異邦人のローマに仕えて働くということで、宗教的に汚れた存在とみられた。その彼の住むエリコの町にイエスがやってくる。イエスを見たいと思ったが背が低かったので群衆にさえぎられて見ることができない。どうするか、あきらめずにイエスを見ようと走って先回りし、イチジク桑の木に登り、イエスが通りすぎるのを待った。イエスが目の前に来た時、予期せぬことが起こる。イエスが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。」とザアカイに声をかけた。彼は急いで降りて、イエスを喜んで迎えた。それを見ていた人たちは「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」とつぶやく。
ザアカイは「立ち上がって」、イエスに悔い改めを具体化させる二つの約束をする。「財産の半分を貧しい人々に施します。」「誰かからだましとっていたら、それを4倍にして返します。」イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子」だとたいへん喜ばれた。
ザアカイはイエスが訪問して下さったことで、神に愛されていることに気づかされた。そして、それまでの歩みを大きく方向転換する。その後の人生を神に喜ばれる「アブラハムの子」として作り直してゆき、自分を愛する人とされてゆく。
イエスはわたしたちの人生という家に、「是非、泊まりたい」と言われている。この恵みに気づき、受け止めるものでありたい。
(祈り)
主なる神、み子イエスが私たちの人生に「是非、泊まりたい」と言われた恵みを
しっかりと受け止めて行くものとならせて下さい。
主イエスに愛されていることで、自分を愛し続けるものとならせて下さい。