聖書の小話(1)「イエスの名刺?!」

マタイ福音書13:53-57

イエスが故郷ガリラヤのナザレの会堂で教えられた時のことであった。
会衆はイエスのことを幼い時分から付き合ってきたとの前提の下で話を聞いていたのだが、よく知るイエスと目の前で話すイエスとがどうしても一致しない。話がはじまると会堂内にどよめきが起こった。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」と驚くと共に「大工の息子ではないか。」と語る人がいた。「大工」とはいわば地上のイエスの唯一の肩書である。これと「知恵と奇跡を行う力」がどうしても結び付かない。また、ヨハネ福音書には「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」とも伝えている。こうした常識とも言える判断は時として、人間の眼差しを曇らせ、本質を見えなくさせることがある。
 故郷ナザレの会堂に集められた会衆はイエスの話の内容もさることながら、イエス本人に関心が集中したようである。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」とイエスに関する情報を語る。その上で「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」と疑問を呈する。
 故郷の人々は先行する常識に操作されて、今、目の前にある出来事を受け止めるための壁を壊すことができない。
いつの時代も常識は大切であるが、問い直すことも必要である。イエスが律法学者のように、律法教育を施され、エルサレム最高法院での学習を積んできたという経歴があるならば、故郷の人々は別段、驚かずに、その教えになるほどと感心を示したかもしれない。つまり、その教えが生まれる出所を知っていれば、「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」という素朴な疑問は起こらなかったはずである。
わたしたちも、何が語られたかではなく、誰が語ったかを重視すぎることがある。そのために事柄の本質を見失うことがよくある。
今日、その人がどういう働きを担うかを明らかにするものとして「名刺」があるが、そこに記された肩書をあまりに重要視しすぎてはならないと思う。まず人間そのものを見つめることが大切である。
イエス・キリストの名刺を作るとしたら、肩書は「神の子、メシア」となるのだろうか。しかし、イエスは「必要ありません」と拒否されると思う。
伝道者パウロの言葉にこうある。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからである。」「永遠に存続される」主イエスという「見えない」方に目を注ぎ続ける信仰者であり続けたい。