「喜ぶのは当たり前」★
「徴税人や罪人たち」に話された譬え。内容は放蕩息子たちの物語。
話は弟が父から財産をもらい、それをすべて金に換えて、家を出てゆくところから始まる。ユダヤの国を超えた「遠い国」へ行き、放蕩のかぎりをつくし、財産を無駄遣いし、一文無しとなったが、「豚の世話」の仕事をし、かろうじて飢えをしのぐことができた。しかし、この仕事は、自らを宗教的な意味で「罪(汚れた)」人となることを意味した。
この人生最大の危機に「我に返る」時を与えられ、「命の糧」であるパンが「有り余るほど」ある父の家に戻り、罪を告白し、「雇い人」の一人として生きる決断をする。受け入れてもらえるかとの不安な思いを抱きつつ帰る旅がスタートする。父の家に近づいた時、予期せぬドラマが展開する。父は息子が帰ることを確信し家の外で待ち続け、彼を見つけるとすぐに「憐れに思い、走り寄って」行った。息子は、その姿に「自分は愛されている」ことを心底、実感した。いわば、究極的な気づきを与えられた。父は「急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と指示し、誰が見ても「愛されている大事な息子」だとわかるようにする。そして、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」として、最高級牛肉をメインにした歓迎パーティを開催する。
この喜びの宴の家に畑での仕事を終えて兄が帰って来る。家がいつもと違い、「音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」ので僕のひとりを呼んで、「これはいったい何事か」と尋ねた。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた小牛をほふられたのです。」
このことで「怒って家に入ろうとはしない。」兄を父はなだめたが、くってかかるようにして次のように言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子ヤギ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」
これは兄が父の家の生活を喜んでいないことを語る言葉である。また、共に生活する弟を認めず、「弟」を「あなたのあの息子」と言い、関係性を否定する。体は父の家にいるが、魂は家出をしているのである。
怒りまくる兄に対して、父親は「子よ」と呼びかけ、あなたも父に愛されている子であることを確認させる。また、「あなたのあの息子」と兄は言うが、父は「お前のあの弟」と、彼は兄弟であることを確認させ、兄弟関係の再構築を求める。つまり、罪人である弟を受け入れることを求める。
福音書でイエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)と語る「罪人」が招かれる、それが「父の家」でなのである。「父の家」は罪人に開かれている家なのである。