「世界の第一日目」(「子どもの日・花の日」合同礼拝)★

 
世界の創造物語を神話形式で語る箇所。

ユダ王国(南イスラエル)は紀元前586年バビロニア帝国により滅ぼされ、多くの民がバビロンに捕囚として連れて行かれた。この出来事はユダヤ民族にとり、かなり深刻な体験であった。

イスラエルの民は囚われの地で、これまでの信仰を根底から問われる「祭り」に出会った。それはバビロンの新年の祭りであり、そこで4つの目と4つの耳で何事も見逃さず、聞き逃さないマルドゥクと呼ばれる神が多くの神々を倒し、世界を創造し、最高の神となるという内容の宗教劇を観た。また、「マルドゥク」の像が神殿から出され、大興奮状態にある民衆の中を大行進する情景をも目の当たりにしたのである。そして、この神に自分たちが信仰していた神が負けたのかと思い知らされたのであった。これはイスラエル民族の信仰の一大危機であった。

中には、自分たちが信じていた神はこのバビロンの強い神に負けたと考え、それまで信じていた神ではなく、バビロンの神を信じる者も出てきた。イザヤという預言者の言葉の中には、バビロンに連れて行かれたユダヤ人の中に、バビロンの偶像職人を雇って偶像を造ってもらい、それを礼拝しようとしていることを示す言葉もある。信仰の対象をバビロンの神に変えるユダヤ人が出てきたのである。

この危機を乗り越えるために様々な信仰の文書が誕生した。その一つが旧約聖書の最初にある世界の創造物語である。

バビロンでは世界は多くの神々の戦いの末に誕生したとされ、新年の祭りで宗教劇が演じられる。しかし、イスラエルの神は戦いの神ではない。世界は神々の戦いで誕生したのではなく、神が語る言葉で創造されたのだという内容の信仰の文書が生まれた。それが創世記の世界の誕生物語である。この第一日目に「光」が創造された。「光」が神ではなく、「神」が光を創造されたのである。神は「星」を創造され「夜」と呼ばれる「闇」を治められたのである。「闇」が世界を支配することを許されないのである。

この、光が創造された世界の第一日目は「夕べがあり、朝があった。」と終える。続く第二日目以降も同じである。「夕べがあり、朝があった。」にヘブライ人の時間観が示されている。イスラエルの歴史は「夕べ」という「闇」に繰り返し、置かれてきた。これでもう終わりなのかと落ち込みそうなときに、その都度「新しい朝(光)」(希望)が与えられてきたのであった。

信仰生活とはこのような失望に終わることのない希望を生きることである。