「キリストに結ばれて」★
ガラテヤ書3章23節~29節
「律法」にではなく、キリスト・イエスに結ばれて生きる信仰者の交わりとは何かを語る箇所。
ステパノ殺害後、エルサレムはローマからの独立を目指すユダヤ民族主義がますます高揚していた。こうした状況に対応すべくエルサレム教会は律法により厳格なヤコブ(イエスの兄弟)に指導者を交代させるという自衛手段を取る。このエルサレムの空気(ユダヤ教支配者、教会)を察知した民族主義的傾向の強いユダヤ人クリスチャンたちはパウロの建てた教会の体質を変える動きを始めた。
ガラテヤの諸教会を巡回し、異邦人もユダヤ人と同様に律法を守って始めて救いに与るのだと説いてまわったのであった。
「使徒パウロ-伝道にかけた生涯」(佐竹明著、NHKブックス)によれば、「ガラテヤには彼の福音理解に批判的なユダヤ主義的キリスト者が来て、彼に対する批判活動を始めた。彼らは、パウロはエルサレム教会の権威によって使徒とされておりながら、律法からの自由という勝手な福音を伝えていると非難し、異邦人信徒に律法を守り、割礼を受けることを信仰の条件として求めた。」
ガラテヤの教会がこのユダヤ主義キリスト者たちに同調し始めたため、パウロは書簡をもって彼らの問題点を明らかにすると同時にキリストに結ばれて生きる信仰をいま一度確認させた。
パウロは「律法」は人間を監視するだけでなく、閉じ込めて不自由にするものであり、それは当時、学校に通う子どもの付き添いや家庭で行儀作法をしつける「養育係」のようなであったが、「もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」と言い切る。そして、誰もが信仰により、「キリスト・イエスに結ばれる」ことが可能とされた。それが「キリストを着ている。」とたとえられ、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」と人種、身分、性別を越えて誰もが皆、「キリスト・イエスにおいて一つにされる。」交わりが創造されると言われる。
この「キリスト・イエスにおいて一つ」とされる交わりを目指す一文は、パウロのいわば母教会とも言えるアンティオケ教会において入信の際、誓われたものと言われる。明日の世界に開かれた伝道方針とも言えるものである。私たちはパウロの伝道につながる働きで主イエス・キリストに捉えられた一人であることに感謝したいと思う。