「信じる者になりなさい」★
ヨハネ福音書20:14-29
「12人の一人」トマスが復活の主と出会い、「信じる者」の歩みを始める物語。
イエスが十字架で殺害され、次は自分たちかもしれないと「ユダヤ人を恐れ家の戸に鍵をかけていた」弟子たちの「真ん中に」復活の主が現れた。「恐れ(闇)」に勝利する「平和(光)」を与えられ、弟子たちは「もうこれで大丈夫。一安心」と喜び、「父なる神がイエスを遣わされたように」派遣の使命が「聖霊」授与と共に与えられた。この最も大切な時にいなかったのが「12人の一人」トマスであった。
復活の主との出会いを与えられた弟子たちにより、「私たちは主を見ました。」とのビックニュースがトマスに伝えられた。それは十字架の主と復活された主は同じ一人の主イエス・キリストであったと報告でもあった。ところが、彼は「よかった。自分はそこにいなくて残念であった。」とは言わない。どのように受け止めたか。
「あの方の手に釘のあとを見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない。」と豪語する。すでに復活の主との出会いを済ませた弟子たちは彼の無理な要求の前に困惑したと想像される。
しかし、主は彼の思いを受け止め、一週間後、復活日でもある日、トマス一人だけのために「戸にはみな鍵がかけてあった」と一週間前と同じ舞台がセットされた。復活の主が現れ、「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えた後、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と彼の要求を受け入れた。さあ。トマスはどうするか?触れたのか、それとも・・・。復活の主はトマスを復活の証人とするために労されたのである。
この経験によりトマスは「12人のひとり」であることを自覚し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」との主の言葉に従う人にされる。それは「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白の下で「見えない方(キリスト)」を信じる歩みとなってゆくのであった。
私たちの信仰に、この「トマス」がいる。しかし、一人ひとりのために主は信じるための「舞台」を作ってくださる。そして、伝道者パウロが「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という世界に生きる(生かされる)人とされてゆくのである。