「心を一つにし」
使徒言行録4:23-31
弟子たちの言葉と行動の記録である「使徒言行録」からの話。内容は当局に逮捕、釈放されたペトロとヨハネを迎えて仲間たちが祈りを捧げる物語。
「生まれながら足の不自由な男」がペトロとヨハネに出会い「ナザレのイエスの名」により、「歩きまわり、神を讃美する」人生を与えられた。彼は二人と共にエルサレム神殿内に入ってゆく。すると、あの「足の不自由な男」が歩けるようになり、神を賛美する姿に接した民衆は「我を忘れるほど」驚き、集まって来る。そこでペトロの説教がなされる。内容はこの素晴らしい出来事の源は「神の子ナザレのイエス」であること、そのイエスを十字架につけたエルサレム神殿体制とそれを補完するローマの支配を根底から批判するものであった。二人は緊急逮捕され、繰り返し尋問と脅しを受けるが屈服しないため、当局は民衆を恐れて釈放する。
釈放された二人は仲間のところに行き、「残らず」報告する。「これを聞いた人たちは心を一つにして」神に祈る。
神を創造者として告白し、自分たちは神の僕であることを確認し、当局のなす神に反逆する罪も、神の救いの計画の下に置かれていることして受け止め、自分たちの願いが祈られる。
祈りの最後は「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思いきって、大胆に御言葉を語ることができるようにして下さい。」であった。
また、み言葉を語るだけでなく、「聖霊に満たされて」言葉の受肉としてイエスの名により「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われる」ことが願いとされる。み言葉を語ることと御手の業は表裏一体として「聖霊に満たされて」「皆」で担われる。
復活の主の命令である「エルサレムを離れず」に従い、エルサレムをナザレのイエスの福音の発信基地とし、伝道の課題が共有され、聖霊の歴史が展開されてゆく。
私たちにとり「エルサレム」とは「礼拝」であり、そこに聖霊が降り、宿り、一人ひとりが聖霊に満たされる。皆が「心を一つに」「大胆に神の言葉」の証人としての歩みがはじまる。そこに聖霊の歴史の新たな1ページが記されてゆくのである。