「自由な人として」(「信教の自由を守る日」礼拝)

Ⅰペトロ手紙2:16

日本キリスト教団は、2月11日の「建国記念の日」はかつての戦争の精神的な支柱のひとつ「紀元節」の復活につながるとして、それに反対の意思を表すため、教会暦のひとつに「信教の自由を守る日」を制定した。教団の多くの教会ではこの日に近い礼拝日を「信教の自由を守る日」として捧げている。当教会もそのひとつ。

2014年の「信教の自由を守る日」の礼拝テキストはキリスト者が「悪人呼ばわり」された古代ローマ社会で「神の僕」として「(少数の宗教者の)自由」を生きることを奨励する話。
「八百万の神々」(例―愛と美の女神「ヴィーナス」もそのひとつ)が至るところに祀られている古代ローマ社会で、教会は主イエス・キリストのみを神とする信仰に生きた。このキリストのみを信じ、他は信じないという信仰のスタイルは周囲からは異質な存在として「悪人呼ばわり」されることもしばしばであった。それは「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じる」「神のみ心」にかなった行いの結果であるとも語られる。キリスト教はローマ社会にあっていわば「新興宗教」であり、あまり知られていないため、根も葉もない噂をたてられることもあった。しかし、たとえ少数であっても、「神の僕」としての証に生きた。
 この証は少数の信仰者を受け入れる土壌をローマ社会に育成することでもあり、それはみんなと違う自由を認める社会づくりに貢献した。

 ところで、少数者の信仰の自由を認めるアメリカ議会の例を紹介しよう。2007年、第110議会でイスラム教徒の議員(キース・エリソン ミネソタ選出・民主党)が初めて誕生し、宣誓式はイスラム教の聖典であるコーランを使って行われた。エリソン議員はCNNテレビのインタビューで「多様性こそがこの国の強さだ。あらゆる宗教と文化の人たちがいるのはすばらしいことだ」と語ったそうである。
この「多様性」とは少数者の自由が大切にされるかどうかである。
古代ローマ社会ではこの自由が認められなかったが、初代キリスト者たちは「神の僕」として「自由な人として」生き、それがキリストを証することになった。この証が「少数者の自由」を認める新しい時代を創ったのである。