聖書の小話(2)「俺たちに明日はある!」

マタイ福音書6:34

 旧約聖書の時代、いわば「俺たちに明日はある」と叫ぶエゼキエルという名の預言者がいた。彼は父の後をついで祭司になる準備をしていた26歳のとき、就職先となるエルサレム神殿がバビロン帝国の巨大な軍事力により跡かたもなく崩れ去る。神殿崩壊をまのあたりにし、彼自身の明日も壊されてしまった。明日無き人生を、イスラエルを追われ遠いバビロンの地での捕囚生活としておくる。5年の歳月を経たとき(30歳)のことであった。エルサレム神殿があれば、祭司として働き始める年齢。その時であった神から新たな「明日」が示される。「預言者になれ」であった。それは「明日」を奪われたイスラエルの民に「明日」を語れとの使命に生きることであった。

 エゼキエルはイスラエル再生のために、それまでの人生のギアを大きくチェンジし歴史の大変化に対応して歩み始める。

 江戸時代、江戸の地図を大きく変えることになった災害があった。それは城の天守閣、本丸もやけ、武家屋敷、町人町も焼き尽くした、「明暦の大火」と呼ばれる大火事であった。犠牲者は6万とも7万とも言われている。その多くはこの時、火に追われた隅田川まできたが橋がないために河岸で命を失った人たちであった。その後、住民たちは、火事、地震などの災害に備え「明日」の安全を確保のために、是非とも橋をかけてほしいと幕府に嘆願する。しかし、幕府は首を縦にふらない。軍事戦略上、川に橋をかけることはできないとの一点張り。この首を縦にふらない将軍にかつを入れる人が酒井忠勝という大老であった。この大老により、隅田川に1659年、橋がかかる。このことで江戸の地図が広がり、大発展してゆく。江戸時代が265年の長きに渡り続くことができたのはこの酒井大老の英断であったと思う。

 イスラエル、江戸幕府にしても「明日はない」と誰もが思う歴史的大事件があった。それは国レベルだけでなく個人においてもある。誰もが「明日のことまで」(6:34)思い悩んでしまい、「もう明日はない。」と思いこんでしまう。
この思い悩みから自由にして下さる方がイエスだと思う。それはわたしたちに代わって解決して下さることではなく、悩みに立ち向かう新たな力を下さることで自由にされる。
それが本当かどうか、あなた自身がイエスと向き合って下さればと願っている。
教会はあなたをお待ちしています。