「"祈り"を教えて下さい。」(「子ども祝福」礼拝)

ルカ福音書11:1-4

ユダヤ人として毎日、3回決められた時刻に祈る弟子が、イエスに新しい「祈り」を求める話。
イエスとバプテスマのヨハネ、本人たちはもとより、弟子も交流があり、そのことで相互に良き刺激を得ていた。イエスがあるところで祈っておられた時のこと、祈り終えると弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」と言った。ヨハネが教えた祈りは示されていないが、エルサレム神殿体制への批判としてヨルダン河で洗礼活動を展開したことを踏まえると、その祈りもそれとなく想像できる。また、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って」(マタイ福音書6:5)祈られた祈りとも異なっていたと思われる。
 弟子たちがイエスに求めた祈りはヨハネが教えた祈りと質的に同じものであったのだろう。
 ルカ福音書によればイエスはこれまでに12人の弟子を選び、休息時、自らの十字架の死と復活を確認する際などに祈っている。弟子が置かれていた厳しい状況を踏まえて示された祈りもある。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

 しかし、今回、弟子が求めた祈りは、エルサレム神殿における神とユダヤ人の関係を執りなす贖罪の祈りとは異なるものであったと思う。
イエスは弟子に「祈る時はこう祈りなさい。」と言われ祈りを示される。旧約聖書の時代、神の名前は母音のない4文字で表現されていた「神の名をみだりに唱えてはならない。」との十戒を守り、この4文字に「主」(アドナイ)という語の母音をあてはめ「エホバ」と呼んでいた。
この呼びかけに関しマルコ福音書のゲッセマネの祈りでは、「アッバ」という言葉が使われている。
 これはアラム語。神を父と呼びかけることは旧約聖書の時代からなされていたが、この「アッバ」はどこにもなく、家族用語でイエスだけの呼びかけであった。この神に親しく呼びかけることがゆるされることをイエスは示したのである。
 このイエスの呼びかけには、自らの神の子の自覚と同時に、すべての人が神によって祈りに招かれていることを示している。その祈りが「主の祈り」であった。
 最後に改訂版「こどもさんびか」に「わたしたちのいのり」として14のいのりが記されている中から「ペットの死」を紹介する。

 「かみさま、いつもみんなをまもってくださってありがとうございます。
 (   )も、うまれてからしぬまで、ずっとかみさまにやさしくしていただきました。
 たくさんあそんだ、(    )とわかれることになって、かなしいです。
 でも、(     )は、やさしいかみさまのところへゆきました。
 かみさまは、いちばんよいようにしてくださいますから、おねがいします。
 てんごくでも(     )をかわいがってください。
 かみさま、(      )がいてくれて、ほんとうにうれしかったです、
 わたしたちはこれからもどうぶつをだいじにします。」

 ペットも神の被造物として「いのり」の中にあることを教えられる。
 まだまだ、これからも教えられる「祈り」を与えられたい。

  (いのり)
     子どもたちと共にささげる礼拝を感謝します。
     神さまが創造された全被造物のために祈るものとさせて下さい。
       主の名により祈ります  アーメン