―☆ オアシス ☆― 2017.6.25
本所緑星教会説教 「命の言葉に生きる」フィリピ2:12-18 20170625
聖書によく出てくる、「従順」という言葉はどういうことなのでしょう。
言うまでもなく、従順というのは、神に従順であるということです。そして従順であることは、まず神に聴くということから始まります。
神にとことん聴く。神の言葉(聖書)に聴く。よく祈る(神に向き合う)。聴くことから救いが始まり、救いの達成があります。
聴くことなしには、救いはあり得ないのです。神の言葉は、わたしたちの命の源です。命の言葉です。
この言葉に預かる、聴くことで、命を得るのです。そして、聴き、その言葉を行う、ということが従順の本質的な意味です。
言うまでもなく、従順というのは、神に従順であるということです。そして従順であることは、まず神に聴くということから始まります。
神にとことん聴く。神の言葉(聖書)に聴く。よく祈る(神に向き合う)。聴くことから救いが始まり、救いの達成があります。
聴くことなしには、救いはあり得ないのです。神の言葉は、わたしたちの命の源です。命の言葉です。
この言葉に預かる、聴くことで、命を得るのです。そして、聴き、その言葉を行う、ということが従順の本質的な意味です。
神の言葉に聴くということの内に、その姿勢も問われています。聴くというのは、「みみへん」の聴くということです。
聞き流すということではなく、注意して心を傾けて聴くことです。傾聴という言葉がありますが、そのようなことです。
聴く側が、謙虚に、謙遜な思いを持って聴かねば、その思いを受け取ることができません。そして、自分の先入観、思いを優先させて聴くことでもありません。
相手よりも優れたことを言わなければ、じぶんの意見をもっと出さなければ、自分の思いのほうを優先して聞くことは傾聴とはいえません。
パウロは、2章のはじめのほうで「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」と書きしるし、そしてキリスト賛歌が記されます(2:6-11)。
聞き流すということではなく、注意して心を傾けて聴くことです。傾聴という言葉がありますが、そのようなことです。
聴く側が、謙虚に、謙遜な思いを持って聴かねば、その思いを受け取ることができません。そして、自分の先入観、思いを優先させて聴くことでもありません。
相手よりも優れたことを言わなければ、じぶんの意見をもっと出さなければ、自分の思いのほうを優先して聞くことは傾聴とはいえません。
パウロは、2章のはじめのほうで「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」と書きしるし、そしてキリスト賛歌が記されます(2:6-11)。
救いは、神の言葉を心を傾けて、全身全霊で聴くことにより始まり、聴き、神の言葉を行うことによって、全うされていきます。
神の言葉を行う人は、神の命に生きるものであることを証します。神の愛に根ざし、その愛によって、その人は、全ての人に、神を証するのです。神の言葉を聴き、神の言葉を行うということによって、喜びの道を見出す人は、必ず、神の言葉をのべ伝える人になります。
喜びがあまりにも大きいからです。この素晴らしい福音を、人々に伝えないではいられないからです。神に聴くという姿勢があればこそ、人は、互いにへりくだって、互いを優れた者と認め、相手を尊重することができます。
神の言葉を行う人は、神の命に生きるものであることを証します。神の愛に根ざし、その愛によって、その人は、全ての人に、神を証するのです。神の言葉を聴き、神の言葉を行うということによって、喜びの道を見出す人は、必ず、神の言葉をのべ伝える人になります。
喜びがあまりにも大きいからです。この素晴らしい福音を、人々に伝えないではいられないからです。神に聴くという姿勢があればこそ、人は、互いにへりくだって、互いを優れた者と認め、相手を尊重することができます。
信仰は、ただ単に自己満足や、自分の研鑽のためにあるのではないということが、神に聴くということから始まり、思わされるところです。
自分にもたられた救いの業が実を結び、その実を多くの人と喜び、さらに喜びにあふれ、喜びが喜びを生み出す、福音の業にまい進することができますように。
自分にもたられた救いの業が実を結び、その実を多くの人と喜び、さらに喜びにあふれ、喜びが喜びを生み出す、福音の業にまい進することができますように。
(岡田恵美子)