―☆ オアシス ☆― 2017.5.28

心の目という言葉、「ヌース」は、私たちの心のあり様をさす言葉です。
聖書全体、つまりは、イエス・キリストの出来事、救いの業について、私たちの心が開かれなければ、このことを本当に理解することができないということかも知れません。
そして開かれる主体は、神さまです。
神さまご自身が私たちに近づいてくださり、私たちの歴史の只中に介入されたという事実を通して、わたしたちの鈍い、ものわかりの悪い心が、開かれるのです。
聖書では、「罪」の問題について、多く取り扱われます。
そして私たちは、物事の「善悪」の只中に生きる存在であり、生きる上で、「罪」を感じることがあります。
そして私たちは、人生の上で数多くの失敗をし、自分自身を本当に罪深い者だと、責めて苦しくなるような出来事があります。
「罪」への赦しを神さまが与えてくださっていることを頭で理解していたとしても、心においては理解できないことがあるかもしれません。
しかし、私たちが、神の赦しの御業を心から受け入れ、神さまの限りない愛を信じ、罪の贖いの業を自分自身の身をもって体験していくことができるなら、自分自身の罪をごまかすのでもなく大目にみるのでもなく、神さまと共にあって、神の赦しの御業を本当の意味で体験することになるのです。
そのときに人は自分自身の十字架(重荷)を自分自身でしっかりと背負いつつも贖われた者として真に愛にあって成熟した信仰者となっていくのです。
キリストの十字架と復活、罪の赦しの恵みは、まさにここにあるとも言えるのではないでしょうか。
私たちが、本当の意味で生かされ、神の愛の内に解放された、ごまかしのない、真実な、神にあって自分をも他者をも尊いとして生きる道です。
私たちが、神さまによって、心をしっかりと開かれ、私たちもそれを受け取るなら、どれほど豊かな道が、私たちには与えられているのでしょうか。(岡田恵美子)