「共に生きる」★
他人の幸せや喜びを自分のこととして共に喜ぶ、できそうでできない、やれそうでやれないことではないか。
『他人の不幸は蜜の味』という慣用句もあるが、私たち人間は他人の成功や幸せ、喜びに接すると羨望や嫉妬を感じ、むしろ人の失敗や不幸の中に安堵感や優越感、喜びを見出してしまう存在。
私たちの中にある自己満足や利己主義こそ、私たちが本来持っている姿なのだろう。
では泣く人と共に泣くことならできるのか。共に泣くとは同情することなのか。
海外で暮らしていたときに軍事クーデターに遭遇し、街中に昼夜を問わず銃声が響き渡る経験をした。
一般の民家も無差別に襲われていたため、毎日が恐怖の連続だった。それまで紛争地にいる人々のために祈ってきたが、実際に自分がその恐怖を経験してみて初めて、渦中にある人々がどれだけ平和を望んでいるか、自分の想像をはるかに超える恐怖や痛みがあることに気がついた。
苦しみの中にある人々の思いを理解し、寄り添う祈りをしてこなかったことを思い知らされた。
共に喜び共に泣くとは思いを一つにすること。自分中心の利己心や慢心があっては人の思いに共感することはできない。
自分の思いをすべて捨てきるほどの愛がなければ他者に寄り添うことはできないが、私たちは自分の努力だけで愛を生み出すことはできない、助けは外から来る。
私たちの誰もが他者の存在を求めて生きている。
共に生きるために私たちを導いてくれるのはまずご自分から私たちを愛してくださった神様だけ。神様が先に愛をもたらしてくれたから自分のうちに愛をもてる。
私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、罪を取り去ってくれた主イエスが共にいてくださる、その愛をくださるから私たちは愛を分かち合い、共に生きることができる。
(信徒 森谷真名子)