「"安心"を求めてーイエスに触れる」★

 

病に苦しむ「おびただしい民衆」がイエスの「癒し」により新たな人生を与えられる物語。

イエスは山から下りて民衆の立つ「平らな所」で活動を始めた。

どのように立たれたか。その立ち位置は弟子たちと共にエルサレムへ向かう途中、セベダイの子たちとその母とのやり取りから知ることができる。

ゼベダイの子たちとその母はイエスに次のように願い出た。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、ひとりはあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい。」。イエスは「王座につかれる方」と受け止められていた。しかし、イエスは「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」ことを明らかにされたのである。この「仕える」ことの究極が十字架であった。

このイエスの下に「教えを聞くため」、「病気をいやしていただくため」に「おびただしい民衆」が「ユダヤ全土とエルサレムから」やってきた。「エルサレム」の人々はエルサレム神殿に「教え」や「癒し」をもはや期待できないからこそ、イエスのもとに来たとも言える。

また、「テイルスやシドン」というユダヤ以外の地域からも人々がやってきた。人々は皆、「何とかしてイエスに触れようとした。」。イエスに触れた誰もが、「イエスの力」により病気を癒された。この癒された一人ひとりは希望に生きる病人たちだった。

そのような一人として、福音書には「12年間このかた出血が止まらずに、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえない女性」がイエスの衣のふさに触れて癒された話が紹介されている。

この女性がイエスの衣に触れた際、イエスは「わたしに触れたのは誰か」と言われた。弟子のペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです。先生に触れたのは誰かわかりません。」と言った。しかし、イエスは探し続けた。このイエスの姿に癒やされた女性が「震えながら進み出て、触れた理由とたちまちいやされた次第を皆の前で話した」。イエスはその女性に次のように言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」

誰も気づかない小さな接触。しかし、信仰に基づくものであるなら、イエスの力がそこに働くのである。