「与えられる希望」★

 

エレミヤ書第17章7~8節「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。その葉は青々としている。」

 

 いきなり希望とは何ですか、と問われても少々困るかもしれませんね。でも聖書ではいつでもこれについて応えるようにいわれています。第一ペトロ3章15節には「そして、あなたがたの内にある希望について説明を求める人には、誰にでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。

 

東京大学社会科学研究所の玄田有史、宇野重規の両教授を中心にして「希望学」という学問分野を始まりました。2004年1月のことであった。

当初は補助金事業からは外されながらも研究は続いた。外された理由は「希望は社会の問題ではない。心理の問題だ。」というニュアンスの言葉が不採択の理由であったそうである。ホームページ作成活動から始まった。

 2007年12月18日に開催された国際コンファレンス「希望と社会の新たな地平へ」は学問としての希望学の転換点になった。リチャード・スウェッドバーグの発案による意味付けは初めて明確な形で行われた。即ち、「Hope is

a wish for something to come true by
action.
(希望とは、具体的な「何か」を行動・行為によって実現する願望である。―actionは途中から付け加えられた)希望は少なくともその四つの要因から構成される。それら要因のうち、すくなくとも一つが欠けたとき、希望は失われることになる。これが希望についての唯一の定義ではないことは認識されていた。日本の失われた10年~20年という状況がこの研究を推し進める起動力であったことは確かであるが、活動のなかで2011年に東北大震災が発生した。これに対して釜石を中心に徹底的にその歴史、産業そして地域社会と未来について現場に入って研究し具体的な多くの活動を行った。その頃から私もこの研究に賛同していくつかの活動に仲間を紹介して加わった。個人的には体力と家庭の制約があり自らが体を運ぶことはできなかったが、仲間が代わりに身体を使った貢献をしてくれた。ありがたいことであった。

 

 (さて、2年ほど前からはこの学問的な活動の限界を感じるようになった。この活動自体は今でも大いに評価できるし、今も方法や視点を変えながらも継続していることには尊敬の念を抱いている。その活動の中で教えられた多くの中から一つを紹介します。南西太平洋にあるフィジーでのホームのことです。入居達は、神を見ることが出来ず、見えた場合には自分が死んでいるはずだと心得ている。生ける者にとって主権者の定める法は言葉を通じて学ぶしかなく、「神の法」=神の言葉としての聖書を開かなければならない。言い方を換えれば、聖書を開くことが信者の生きているしるしなので、彼らは重い病にかかると必ず枕元に開かれた聖書を求める。見えないものを信じて語ることを止めない入居者に対して、神もまた聖書を通しておのれの法を語り続ける。神とは言葉を通じて結ばれるので、入居者は毎日幾度となく神に向けて祈り続ける。敬虔なキリスト教徒を自負するフィジー人として生きてきた彼らは、ホームで日々を送る中で、宗派や民族や知的理解の差異を超えて「神は一つである」思いを深くする。毎週四つの異なる教会から説教師が訪れるたびに、障害者も痴呆の方もおとなしく椅子に座って、ときにはヒンドウ教徒かイスラム教徒のインド系の人も参加して、一緒に「生を再び始めよう」という趣旨の説教を聴きます。説教にも祈祷にも、フィジー人の儀礼につきものの首長や祖先神への言及は一切ない。神と自分が直接に対峙しあう育ちやすい環境といえます。神とまみえるだろう向こう側に思いを馳せて、入居者は死の向こう側からこちら側がどのように見えるのかを考える。向こう側の自分は言語行為の主体として神に見られる対象である。反対にこちら側の自分は聖書の言葉が与えられた客体として神の意志の徴候を探す主体になる。こうした不可分で異なる様態へとみずからを開きながら、彼らはフィジー人の法を超え出て、神の法の包摂される「人間」として現われつづけることが出来ます。尊守すべき法が神の言葉であるかぎり、法と言葉は置き換えることができる。同じように希望もまた信仰に等しく、二つを区分することは難しい。「私は神を信じる、私は神と共に在ることを希望する。」は、「神は私の希望だ。私は神とともに在ることを信じる。」へと難なく置き換わります。法と希望は一つの信仰に由来させる形で記述できるかもしれませんが、彼らにとって希望は信仰と同一で神の法=神の言葉という真実の内部で成り立つものでしかない。だから入居者の一人は、希望と信仰にさらに「愛」を加えて、「みな同じだ」とさえ述べているのです。

皆様はこのような話を聴いてどのような感じを受けられるでしょうか。

(しかしながら、この活動に宗教というものの視点がどうしても含まれて来ない。たとえば、「希望」とうものを作るのはどうしたらよいのか」というような議論が出てきた。この提議自体は社会学というものを考えるときには、どうしても「社会への貢献」という具体的な要求があるからゆえに致し方のないプロセスであることは認めざるをえない。しかし、それはそれで進めて頂いても、私はどうしてもそれでは不十分さを感じてしまい、一歩も進めなくなる。その原因は、私がキリスト教徒であることから生じてくるからなのか、どうしても視点が合わなくなってくるからである。社会科学的なアプローチと宗教特にキリストの教えからのアプローチとはなかなか融合しにくい面があり、互いの認識と尊重はあるのだが、具体的な理解、視点、感受性というものは完全には共有しにくくなってしまう。根本的には主体がどこにあるのか、人間なのか、神なのかという話さえ出てきてしまう。さて困りましたが、別の次元のことを完全に融合させるということはあきらめて、おたがいの言語が通じる範囲での活動協力ということになった。なぜならば聖書でいう希望を語るときには学問言語としての定義は難しいし、その必要性にも疑問があるからでもある。)

 また、震災でのことであるが、震災直後の避難テントがいくつも造られた。そのテントの中で生活する人々の小さい集団でもなぜか"ボス"が存在し、なんでも命令するようになる。どうしてだろうかと悩む友人がいた。ボスのいうことに従わない場合は面倒なことがおきる。いうなれば、これはファシズムの原型でもあろう。そこで、昨年吉村萬壱さんという芥川賞作家の「ボラード病」という小説を読んだ。ざっとそのあらすじをお話しすると、最初のうちは、精神に変調をきたしているとしか思えない小学生の少女が独白している。海沿いの小さな町で、お母さんが家にいて、誰それさんが来て、外から誰かが見ていくとか、訳のわからない話。私は刺身が大嫌いだとか、そういう話をずっとしていくのですけれど、どうやらその町は海塚という市で、大変な災害があって、ひどい汚染がこの国全体を覆った。それで皆はよそに避難していたらしい。ところが戻って来て、地産地消で身体にいいようなものしか食べない。そんな町を作って、みんなで一緒に掃除をして、みんなで海塚賛歌の歌を歌って、そこにいると温かく幸せになる絆の町が出来ている。ところが、それは巨大なファシズムがいつのまにか成立していたのだ、というわけです。どうも、その家族は、お父さんがその流れの中に入れなくて、どこかで粛清されたらしいとわかってくる。どうやら、内側にいる人間には暖かく大切にするけれど、外側にいる人間にはものすごく冷酷で、粛清をしていく。そんな全容がみえてくる。異常なのは本人ではなくて、社会のほうだとわかってくる。ようやく、その中に同化して、自由を得たように思うけれども、さらにどんでん返しがある。という内容です。日本人の本質なのかもしれない、一つにまとまらないと生き残れない。でもそうなると全体主義は避けられない。全体主義自体が悪いとは私は思いませんが、一方で重大な短所を抱えていることは明白です。抑圧という名の短所です。同調圧力がありますから。たとえば世の中の空気が節電を強制してくるみたいなものである。それを不謹慎ファシズムというような言い方もできるのかもしれない。希望は完全に失われてしまったかのようです。

それが今の日本では「村の掟」に縛られて動けないという状況にはなっていない。これは近代以降の先進的なもののような気がするのは私だけではないと思います。そのありがたさについては再確認したいものです。しかし、いわゆる悪貨が良貨を駆逐しているのが問題だと感じました。根本にあるべき「思いやり」の欠如が最も大きな原因ではないでしょうか。聖書でいう「隣人への愛」のことです。

 

さて聖書に戻りましょう。

 

預言者エレミヤは「主に信頼する人」人間的なものに信頼している人の不幸と、神に信頼している人の祝福とが対比されています。エレミヤの人間性に対する洞察は厳しく深いのですが、決して人間の幅広い経験による知恵を軽視しておりません。自然における神の支配を重視し、【5章、8章】人々の様々な道に立って、幸いに至る道を慎重に選択せよとすすめております【6章16節】。真実とはエレミヤにとっては一面的に偏った徹底を意味しているものではないことはエレミヤ書を通して読み取れることです。

 「希望」については先のエレミヤ書だけではなく、イザヤ書そして新約の多くの聖句に記されております。それらをまとめてみますと次のようになります。

 1.「希望」とは人生の目的でも、目標でもまた安易な願望でも(先ずは「願い」を持つことですが)、予測でも可能性思考でもない。「希望」は肉眼で見ることはできません。

 2.「希望」は神から来ます。そしていつまでも存続します。失望に終わることはありません。「いつまでも残る者は信仰と希望と愛です」(1コリント13・13)。そして信仰に導いてくれます。それは内在するキリストにあるからです。キリスト者は頑張って生きるのではありません。内在するキリストの助けと力によって生きるからです。これこそが、信仰する者に与えられる最大の希望です。キリストこそが私たちの「希望」なのです。

 3.「希望」は練られた品性によって生みだされるという方がおられます。練られた品性とはしぶとく、あきらめず、最後までとどまり続けるというような意味です。この品性の出番は窮地に追い込まれた時でしょう。これが失望を希望に変える力のあるものなのです。

4.「希望」は神の名の一つとも言えます。「どうか、望みの神があなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ書15章13節)

  ・全能なる神  ・聖なる神  ・望みの神(God of Hope

    ・救い主なる神   これらと共に「希望なる神」と呼ぶことも可能です。

 5.祈りは「希望」の行為です。失望状態に置かれた時には、希望をもって祈りましょう。(ルカ18章)

 6・ひっきりなしに祈る。無視されても拒絶されても祈り続けましょう。「祈れる」という「希望」があります。

 7.最後まであきらめないで祈り続けましょう。祈りによって粘り勝ちするのです。希望の祈りは失望を乗り越える力を持っています。(「希望は失望に終わることはありませんーローマ書5・5」)。

 8.「希望」の祈りを神は聞いて下さる。

 9.クリスチャンの真の「希望」は自分で作り出したものではなく、神から与えられたものです。

10.神は個人に対して「希望」の計画をもっておられます。(エレミヤ書29章11~14)そのご計画は自動的にわかるものではなく、個人によって見いだされなければなりません。個人によって神のご計画は大きく異なる。個人の素材を用いて作品を創造しようと神はされています。この作品の特徴は、ひとつしかない、ということなのです。もし自分で自分の人生設計図を作り上げようとするならば、それは希望によるものではありません。希望の計画は、あくまでも神から得るものです。ですから心を尽くして神を呼び求め、探し求め、神のご計画を見出すことが前提となります。それにより人生を進めることができます。単なる受け身ではありません。

11.祈りはすぐに答えられるとは限りません。むしろ良い適切と思われる願い事であっても、断られることもあります。否定されても、あきらめてはなりません。応えられるまでしぶとく頼み続けるのです。神に、あなた方が、私が決して引き下がらないことを示すのです。求めてダメなら捜しなさい。捜してダメならたたきなさい。たたき続けるなら、やがて門はひらかれるから。祈りは行動的なのです。捜す、たたく、は行動なのですね。神は厚かましく、しつこい祈りを信仰者から期待していると聖書は語っています。神に、あなた、私が信じていることを示すのは「希望を失なわない」ことを示すあつかましい祈りです。神はあなたが、私があつかましくあればあるほど喜ばれると思います。

 

最後に、フランスの宗教改革者であったJEAN CALVIN(J.カルヴァン)の言葉を紹介します。私はこのカルヴァンの神学を全面的に納得するものではありませんが、この言葉は良い言葉だなと思うからです。

 

 「希望」ということばをわたしは「信仰」と受けとる。事実、希望とは信仰を一貫して持ち続けることである。」

そして、キリストの無条件の愛があるからこそ、希望があるということをしっかりと受けいれたいと思います。