「命を救うこと」★

 
安息日に会堂にいた「右手の不自由な人」をイエスが癒され、それに怒り狂う律法学者たちの話。

イエスの働きはそれまでのイスラエルの信仰の抜本的な再構築であり、庶民に神の国の到来を実感させたが、ユダヤ当局にとっては赦し難いものと受け止められた。

ルカ福音書によれば、悪魔の誘惑に勝利された後、「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」

ある安息日の会堂内で教えを語るイエスに「右手の萎えた人」も尊敬の眼差しをもって耳を傾けていた。堂内では教えを語るものと受け取る者の間に恵みに満ちた空気があふれていた。

一方、律法学者、ファリサイ人はイエスがまた、安息日にしてはならないことをするのではないかと監視している。

「立って、真ん中に出なさい。」とのイエスの言葉に従い、「右手の萎えた人」はまず「身を起こして」片隅ではなく、「真ん中」に立った。それを苦々しい思いで見つめている律法学者たちに「あなたたちに尋ねたい。安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と問われた。そして、「右手の萎えた人」に「手を伸ばしなさい。」と言われ、決断を迫った。イエスの言葉を信じて「手を伸ばすか」どうするか。自らの人生をイエスに委ねるかの決断である。この人はイエスの言われたようにした。すると「手は元どおりになった。」。「右手」が再生され、使えるようになり、生き生きとした生活が回復された。

イエスの言葉により、手がもと通りになった人を中心に会堂は喜びに包まれる。しかし、一部であるが、「怒り狂い、イエスを何とかしようとした」律法学者たち、ファリサイ人たちもいた。

萎えた右手を癒された人をはじめ、ガリラヤの民衆は、イエスを「律法学者のような人ではなく」、権威ある方、神の子として神の支配をこの世に実現される方として受け止めていった。

キリスト教会は、この安息日に代えて、キリストの復活を記念して日曜日を「主の日」として守ってきた。それは安息日の否定ではなく、かえってその意味を成就することであった。安息日とは過去の恵みを覚える日であったが、主の日は明日の希望を確信する日となったのである。