「手の業すべてに」★
示された御言葉は「寄留者。孤児、寡婦」など社会的な弱者に対する救済規定の箇所。これらの人々の多くは「難民」と言える。今日、こうした人たちをどのように受け入れるか地球規模の課題となっている。
旧約の歴史において北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた時、指導者層は「被征服民交換政策」の下、帝国各地に強制移住させられたが、一般民衆は取り残された。そこに上記の政策の下、帝国各地から多くの民族が来る。言葉、習慣も異なる民族との関係づくりをどうすればいいか。言葉も通じない人たちと付き合うより、通じるところで生活したいという願いがあったのだろう、北イスラエルの民の多くは南イスラエルに入り「難民」となった。
旧約聖書学者の山我哲雄は「一神教の起源」(筑摩選書274頁)に「この混乱の中で、北王国のかなりの住民は、滅びつつある祖国を捨て、難民としてユダ王国に移住したと考えられる。」南下してきたことで北イスラエルの民をどのように受け入れるかがユダ王国の緊急の課題となった。
これに対応できる「寄留者、孤児、寡婦」の権利に対する人道上の規定が申命記24章であると言える。そこに「寡婦の着物を質に取ってはならない。」「畑で穀物を取り入れる時、一束忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」と具体的に記されている。
戦時下の日本において「信仰難民」とも言える兄弟姉妹を当教会が受け入れたことがある。
日本の教会史において最大の迫害と言えるホーリネス教会弾圧事件の時である。国家の暴力により同教会は解散を命じられ、多くの牧師たちは逮捕された。その群れに属するホーリネスの本所堅川教会が当教会の近くあった。信徒は牧会者を奪われだけでなく、礼拝する教会もなくなる。いわば、「信仰難民」となった。この兄弟姉妹を当教会は受け入れたのである。
このことについて「当教会の95年誌」にホーリネスの本所堅川教会員で当教会に転入された兄弟の言葉が紹介されている。
「・・・・政府から解散を命じられ、当時特高警察の監視下にある信徒を喜んで受け入れてくれる教会は少なかったようである。この時、本所緑星教会は、廣野牧師の決断と役員会の理解ある賛成を得て、この本所堅川教会の信徒を受け入れる事を決定した。今この平和な時代においては何でもない事であろうが、当時としては、主に対する信仰と主にある兄弟としての愛がなくては、この決断はできなかったのではないかと深く敬意を表するものである。・・・」
「難民」はその時代、時代により、ゆるしてはならないことであるが、国家の犯罪により、産みだされてしまう。それらの人々を「兄弟姉妹」として受け入れることが、教会の課題である。