「イエスに従うーガリラヤからの出発」★

  ガリラヤは、自分たちが生きる場であり、日常生活の場である。一人一人が自分たちの生きる場で、理不尽な権力者に抵抗しながら人間性を回復してゆく所でもある。

イエスに従い仕えることは、様々な問題が山積し、疲れ、苦しみ、困難にあえぐ人々、差別されている人々との共生の道を歩むことを意味する。この日常のただ中にいて、イエスは荷を負い、軽くし給う。

 私たちの日常が、どんなに苦難にみちたものであろうと、イエスは「網をおろしなさい」と語られる。一日中労働しても何もとれなかった漁師たちの上に、この大漁の奇跡がおこった。恵みが豊かにあふれるばかりに注がれた。

 ガリラヤ湖を考えるとき、いつも思うことがある。ヘルモン山に源を発するヨルダン川が北から南へこの湖を貫通して、死海へと流れこんでおり、この河水によって湖水の水は絶えず新鮮さを保っていると言う。それ故、約40種類の魚の棲息を可能にしているという。

 私たちの社会がガリラヤだと考えると、さまざまな問題が山積していても、いつも地下水脈のように、新しい水がつきることなく、死海までその流れが貫通しているごとく、神の正義が失われることなく、歴史をつらぬいて流れていると実感できる。このガリラヤ湖の新鮮な水は、神の愛と赦しと恵みだと思う。ガリラヤ湖の魚のように、絶えず新しい命の水をいただきながら生きることが赦されてる。

 教え子から手紙が来た。「先生が教えてくれたへいわを覚えている。これからの先生の生き方をみています。」というような内容だ。いわを愛する心、やだという行く勇気、を愛し人間関係をつむいでゆく力を、まされない知性をもつということ。私が大切に語ってきたことが伝わったんだと実感した。私はこの教えてきたことを、自分の生きているガリラヤで、いかに実践していくかイエスに問われていると思う。

 私は、何もとれなかったのに、大漁の恵みを与えて下さった主を信じ、「み言葉ですから」と、イエスに従う道を、自分の言葉と行動をもって、証しながら歩んでいきたいと強く思う。(信徒ー小嶋明恵)