「すべての民を」(「創立記念日」礼拝)★
神田に「ニコライ堂」が完成する、内村鑑三が不敬事件で職を奪われるなどの出来事のあった1891年(明治24)が本所緑星教会の創立の時である。
米国ペンシルベニア州を中心にドイツ系の移民により形成されたアメリカ福音教会総会の「日本伝道」の決定の下、クレッカー牧師が夫人と3人の子と共に1876年に日本に上陸する。その後、神田駿河台のニコライ堂の神学校の寄宿舎の不用になったものを住まいとして借りた。当時、外国人は築地の居留地以外に住むことを許されなかったが、英語教師として神田に住むことを許されたのである。夜、英語塾を開き、日曜日には日曜学校、引き続き礼拝として活動し、1878年(明治5年)2月「美土代町講義所」が開設された。この「講義所」が本所緑星教会の前身である。
本所地区の立川、亀沢と講義所を点々としつつ、熱心に伝道するが不振であり、活動停止かという危機に陥る。しかし、これを打開するために労する二人が備えられた。入江義次が本所同胞教会より、山口利八が本郷メソジスト教会より転入会する。二人はそれぞれ担当する部門を明確にし。入江は教会学校、山口は伝道部門の責任者となる。やがて「会堂を建てよう」という信仰の幻が与えられ、そのための献金が始まる。入江は歯医者であったので、歯磨き粉を制作販売して収益を献金する。この「会堂建築」という明確な目標の下、伝道に励んでいた矢先に関東大震災が起こり、講義所焼失、坂本牧師夫人、多くの教会員が犠牲となる。小さな伝道所にとり大打撃であった。「これでもうこれで終わりか」と思われたが、終わらなかった。入江は大きな試練の中で「キリストの福音」を伝える集会所を持ちたいと祈りつつ、明確な目標を立てる。建設中の貸長屋を借りて、そこを拠点とした伝道が始まる。しかし、震災で夫人を亡くした坂本牧師は清水教会へ転任する。そこへ28才の若き牧者、廣野捨二郎先生が着任する。その時のことが、が入江義次と共に教会再建に努力した山口利八の言葉として「95年誌」に以下のように紹介されている。
「時あたかも新任牧師を迎え、復活日の聖安息日にあたり、いよいよ長く取りやめになっていた朝の礼拝が諸兄姉と共に喜びの感謝の中に復活され、感謝に満たされた。これは本所教会の最も記念すべき忘れることのできない大正15年の復活祭礼拝~」
廣野牧師は19年間、当教会の牧師として精力的な働かれた一方、1941年に創立された日本基督教団の常議員会の書記もされた。
日本基督教団は1941年6月24日、富士見町教会で創立総会が開催され、その歩みをスタートした。当教会はこの日本基督教団に所属するに際し、名称を現在の「本所緑星教会」とする。
教団創立総会は「君が代斉唱」、「宮城遥拝」、「皇軍兵士のための黙祷」、「皇国臣民の誓い」の国民儀礼を以って開始された。総会では「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」と宣誓。日本基督教会大会議長の富田満牧師が教団統理者に就任。廣野牧師はこの富田満牧師を議長とする常議員会の書記として働かれた。戦時体制にからめとられてゆく教団の常議員会での議論の中におられた。そして、1945年3月10日の東京大空襲でご長男と共に天に召されたのである。47才であった。
クレッカー宣教師、入江義次、山口利八、廣野捨二郎牧師、みな「キリストの弟子」であった。
本所緑星教会は来年、創立125周年を迎える。明日の時代が求める「心の糧」は何かを尋ねつつ、
さらに伝道に励みたい。