「イエスの行動原則」★

 

「安息」のない日本社会を語るサラリーマン川柳に「無理させて無理をするなと無理を言う」という句がある。「過労死」が絶えない現実が語られている。日本人の多くは「ガンバリ教」の信者とある牧師は語っている。しかし、イスラエルの神は「主は安息日を守るように命じられたのである。」と律法に「命令」として「安息」を記している。

話はガリラヤの春のある安息日、イエスと共に歩む弟子たちが麦畑を通る際、たわわに実る麦の穂を摘んで食べたことに対し、ファリサイ派の人たちが問題にしたことから始まる。

ファリサイ派とはユダヤ教のひとつのグループでいわば「100点満点の信仰」を目指していた。この派の人たちが弟子たちの振る舞いに対し「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」と問うたのである。安息日の禁止事項は最初は39項目であったが、それでは不十分ということで、それぞれに6つずつの細則がついて、全部で234項目となった。これにより、弟子たちの行いを見ると、どうなるか。「麦の穂を摘む」-収穫の罪。「手でもんだ」-脱穀の罪。「殻をはいだ」-ふるいかけの罪。「食べた」-食事の用意の罪。安息日にしてはならない罪のうち4つものを犯したことになる。

ファリサイ派の人たちは"超"まじめな顔で問題にしてきた。ここにはそうせざるを得ないユダヤの歴史があった。「バビロニア」捕囚という民族が歴史から消えるかもしれなかった時代、神の民としてのユダヤ民族を消滅させないための努力の一つにバビロンの地で始められた、安息日の集まりがあった。長老や知識人を囲み、宗教的な文書を朗読する、その文書をもとに長老たちが説教をする、みんなで歌を歌い、お祈りをする言葉を中心とする集会を始まった。のちの時代のユダヤ教のシナゴーグ礼拝の原型である。

この安息日を守ることでユダヤは歴史から消えることなく、存続することができたと言っても過言ではない。だからこそ、ファリサイ派は弟子たちの行いを問題にしたとも言える。

これに対してイエスは「ダビデが自分も伴の者たちも空腹であったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司の他には誰も食べてはならない供えのパンを取って食べ、伴の者たちにも与えたではないか。」と語った。祭司以外は食べてはならないパンを祭司ではないダビデが、そして供のものたちも食べた。規則よりも、ダビデの窮乏を救うことを優先させ、人間を大切にされたのである。

ファリサイ人にとり、律法は、あれはしてはならない、これはしてはならないという禁止命令になっていた。しかも、それらは聖書からではなく、伝統や習慣から生み出されたものばかりであった。

マタイ福音書のイエスの言葉に「わたしが来たのは律法や預言を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)イエスとは律法を完成される方なのである。

神の恵みの日である安息日。イエスと弟子たちは「麦の穂」をむいて食べた。自然の恵みを実感する豊かな時を与えられた。そのようなイエスの振る舞いに、弟子たちは「安息日」の本来の恵みを与えて下さるイエスこそ、安息日の主であることを実感したのである。