「私と他者、ただ神の愛によりて」★
他者と共に生きる私たち。他者がいないと生きることもままならない一方で、人間は他者のために悩み、苦しみ、罪を犯すのである。また「子どもを愛せない親」や「教師の生徒理解力」が取り沙汰される昨今、そこには根源的な問題が見いだせる。それは人間が誰かを理解したり、愛することの限界である。不完全な愛しかもたない人間にとっては、「他者」がいることが試練の一つであるのかもしれない。
イエスはそんな他者との関係に悩む私たちに大きなヒントを与えてくれている。イエスは最重要の掟として、神を愛すること、隣人を愛することを挙げた。繋げて書かれ、一文のなかに二つの掟が入っている。この二つの掟は密接に関係していることを意味しているのだ。神への愛は隣人愛によって実現され、隣人愛は神への愛に支えられている。
そこで言われている隣人愛の実行のすすめ。これに私たちは悩むわけであるが、このメッセージは単なる隣人愛のすすめではない。その裏には「神からの大いなる愛を感じ、感謝しよう」というメッセージが隠されている。
並行箇所の「サマリア人の例え」はそのことを暗に、しかし力強く示している。最初の律法の専門家の問いは「隣人」を「愛される客体」としており、「自分は誰かを愛すべき存在であり、それができる人間である」と自負が見える。しかしイエスは「隣人」を「愛する主体」として表現し、「神からの愛を思い出せ」と諭す。私たちが誰かを愛する前に、まず神が私たちを愛している。そのことを知り、そこから始めろと。
そして圧倒的な愛で私を包んでいる神は、他者をも愛している。「私、神、他者」という三角形の関係は、他者を一人の人格として捉えることをも可能にしてくれるのだ。社会から逸脱した人々と共に生きようとしたイエス。彼の歩みは人間基準のルールや肩書き、常識を越え、目の前の他者を一人の人間として受け止めることであった。
わたしたちは、この世界の肩書き、ルール、基準に縛られ生きている。そして自分と他者との関係性はこれらの要素に影響され、悩みとなる。しかし神の愛が全ての源であること、また私への神からの愛はそこで帰結するわけではなく、神を介して、他者、隣人へと繋がっていることを思えたとき、その関係性は、神が介在するがゆえに強く、寛容で、穏やかなものになるのではないだろうか。(信徒 秋田俊輔)