「罪の責任を負う愛」★
ユダヤ社会で差別されていた「徴税人レビ」がイエスの招きに応えて弟子とされる箇所。
このイエスの招きは「律法」という社会の見えない「敷居」を低くする効果をもたらしていった。つまり、イエスの神の国の福音は、「敷居」の外に追いやられていた「罪人」を招くものであった。
「徴税人レビ」は彼の前を通る多くの人からは「おまえは罪人だ」と言わんばかりの視線をあびつつ収税所に座っている。誰一人として、「笑顔」を向けることはしない。彼の前の空気はいつも冷たかったが、それを吹き飛ばすように、イエスは相手に熱い関心を持ち、共に歩むことへの招きとなる「わたしに従いなさい。」と呼びかける。
このイエスの「招き」により「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」。人間の持つ何かによるのでなく「何もかも捨てる」ところから、神のみ業は始まる。
イエスという「光」への招きはレビの人生の「闇」を捨てさせ、イエスと共に生きる「光の世界」への脱出であった。これはいわば、レビの第2の誕生日。レビはこの誕生を与えてくれたイエスのために盛大なパーティを開催する。
しかし、この一連の出来事に「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」は「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと共に飲んだり食べたりするのか。」と問題にする。
ユダヤ人が食事をすることには特別な意味がある。今日では当然かもしれないが、食事の前には手を洗わなければならないなどの清めの儀式があった。手を洗う際には祝福の言葉を唱えられ、食事前の手洗いの習慣は非常に厳しく守られていた。これはユダヤ民族が歴史上に生き残るための衛生管理であり、ユダヤ民族意識を強めるものでもあった。土地を奪われ、バビロンに捕囚されるなどのその民族消滅の危機を乗り越えるためにも食事の規定は欠かせなかった。
徴税人レビはローマに仕える仕事に従事することで、ローマ人との会食もあったことだろう。つまり、それはユダヤ人でない異邦人と接触をすることであり、それは宗教的な意味で「罪人」となることを意味した。
イエスはそうした罪人と一緒に食事をする。それは律法を中心とするユダヤの体制への挑戦となったため、ユダヤの体制をしきっていたファリサイ派の人たちは「あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難したのである。
イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と答えた。
ユダヤの社会を規制する律法は、社会にいわば「敷居」や「壁」をつくり、律法を守ることができない人を「敷居」の外へ放り出す規定であった。しかし、イエスの説く「神の国」「神の支配」にはそういう「敷居」や「壁」はなく、すべての人に「開かれている」。今日の箇所の徴税人レビを弟子とする物語もそのことを証している。
教会はこのイエスの「神の国」の福音に生きる、生かされる群れなのである。