「平和をつくり出す人びと」★

 
今年、日本は戦後70年の節目の年を迎えています。

「平和」って何でしょうか?今、平和はここにない、平和はつくり出すものである。「平和」は誰かがつくり出すもの。しかも一人ではない複数の人びとがつくり出すものだと、今日の聖句は語ります。

「平和」という言葉の意味は幅広く、民族や時代によって大きく異なります。ヘブライ語のシャロームの場合、繰り返し外敵の危険にさらされて、内部的にも分裂の危機を抱えていた遊牧民・イスラエルは、外からの介入に対抗する必要性があったため、「シャローム」を政治的な意味と不可分に、戦いの中において実現される「平和」と考えていました。しかしもし、「平和」の問題が自己の生存、自国の生存だけへの関心であるならば、あらゆる戦争を「平和」の名の下に肯定することが可能になります。

もう一つの聖句・エレミヤ書29章7節では、自分たちの国を滅ぼし、自分たちを捕虜にした人々の「平和」と繁栄を求めよと語ります。この聖句は、現代において私たちが考える「世界平和」にも展開しうる可能性を秘めています。

かつてキリスト教会が戦争に加担しなかったのは、古代教会だけと言われています。古代教会はまだ力のない極めて弱い存在、力がない故に戦争への加担をしないで過ごしています。紀元66年~70年頃、ユダヤ人たちの一大民族運動だったユダヤ戦争に、教会は一切関わっていません。紀元4世紀以降、キリスト教が国教の地位を獲得すると、状況は一変します。国家と宗教が癒着することによって、教会が国家に忠誠を尽くすこと、武力によって相手を征服することも国に対する忠誠と考え、教会がその後押しをするようになります。

キリストは教会、あるいは信徒だけの主ではありません。他の人々、全世界の主であるということを忘れてはならないでしょう。教会はいつも教会内的な関心にのみ限定される危険性を持っています。しかし、イエスの生き方は違っていました。イエスの集団はそうした閉じられた性格を一切持っていない。洗礼もないし、固有の名称もない。イエスの集団は開かれた集団であり、誰でもが出入り自由の集団でありました。イエスの生き方は、この世の中で置き去りにされているようなものにこそ、焦点を合わせていこうとする生き方でした。まさに価値基準の転換です。この十字架に架かったイエス・キリストに従うことなしに、「平和」はつくり出せません。自分の生き方全体の転換なしに「平和」は語れないということではないでしょうか。

ボンヘッファーは平和について以下のように言います、「平和と安全保障は違う。安全保障という道を通って平和に行き着くことはない。」「安全保障の根底には、自己の安全を求めるがゆえに、相手に対する不信感がある、この不信感こそが再び戦争を引き起こすのだ。」「平和とはすべてを神に委ねることだ。安全を求めるのではなく、信仰と服従の中で、すべてを全能の神のみ手に委ねることだ。」

日本国憲法はその前文において、「世界平和」を謳い、「平和をつくり出す」担い手になると宣言しています。これこそまさに、「平和学の父」と呼ばれているヨハン・ガルトゥング博士が語る「積極的平和」そのものです。エフェソ書2:14ffに「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とあります。キリストはご自分の肉において、すなわち十字架において、「敵意という隔ての壁」を取り壊したのであります。キリストにあって、対立する二つのものをひとりの新しい人に造り変えて、平和を来らせ、平和を樹立することも可能にしました。まさに「キリストはわれらの平和」です。そのようなキリストを模範として、私たちも、神の平和、キリストの平和、世界の平和のために、日々、平和を宣べ伝え、平和をつくり出す人びととなりたいと思います。

(文責:秋田順子)