「神の国・開かれたもの」★

 

人間の尊厳の根源はどこにあるのか。

イエスは、ぶどう園のたとえで、このように語った。ぶどう園の主人は、各人に相応しい賃金を払うことを約して労働者を集めた。ところが、夕方ようやく雇われた人にも、日の出から働いた人の目の前で同じ賃金が払われた。相応しい賃金とは、労働力として優れているか、どれだけ働いたかに関係なく、等しい賃金であったのである。主人ははじめから同じお金を等しく分けるために、あらゆる人を集めたのだ。このぶどう園は神の国の比喩。主人は、生きるに値する価値が誰にも等しくあることを皆の前で宣言した。元祖人権宣言とも言うべきものである。


イエスの時代、宗教的権威者たちは天国の鍵を独占しようとしてきた。洗礼者ヨハネは彼らを批判し殺された。イエスは、無条件に病を癒し、「神の国は実にあなたがたの間にあるのだ」と神の国を解放した。そして、十字架に架けられた。神の国のたとえは、命がけで語られたものなのだ。


近年、日本では自殺者が毎年3万人を超えた。多くの人が精神的に追い詰められているのは、不安定な非正規労働が増えたことが背景にあるといわれている。労働者が人でなく、単なる労働力としてしか認められない。非正規労働であるということ自体が、あなたの代わりはいくらでもいるという、語られざるメッセージなっている。


 今、国会で安全保障法制が議論されているが、自衛隊員のリスクについて問われて「木を見て森を見ない」と発言した人がいた。木は個人であり、森は全体。役割の中にし


しか人間の価値が見出されない最たるものは戦争だということを、端的に示している。


このような現実社会の中で、教会は何を目指すのか。私たちは、神により等しい価値を以って創造された。私たちの基準で役に立つかどうかは関係ない。それをイエスは高らかに宣言している。


教会が開かれなければならないのは、神の国が開かれているからである。イエスは一切の宗教的権威を認めなかった。そこに歴史が開かれたのだ。神学もまた、宗教的権威から開かれ、それゆえ、聖礼典の問題も、開かれた議論ができなければならない。


 イエスが、命をかけて何を語り何をしたのか、そこから出発するとき、教会は必然的にあらゆる人に開かれたものになる。このぶどう園は、実に、今ここに、私たちの生きる場に実現されるべきものである。