「気前のよい神」★

 
イエスの中心的なメッセージである「天の国(神の国)」が「ぶどう園の労働者」のたとえで語られている箇所。

「ある家の主人」が「ぶどう園で働く労働者を雇うため」に「町の広場」に「夜明け前」に出かけるところから始まる。

「広場」に「ぶどう園の主人」がやってくると、多くの失業者が職を求め、殺到する。主人は「夜明け」「九時頃」「十二時頃」「三時頃」と何度も広場に足を運び、多くの人を「一日につき一デナリオン(賃金)の約束」で「ぶどう園」へ送り出した。

夕方近く「5時頃」、雇われずに広場に取り残された人たちは、今日はもうこれでおしまいかと思い、広場から去ろうとした時、「ぶどう園の主人」がやってきて、声をかけてきた。それは「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。」と置かれている厳しい現実を今一度、認識させるためであったのかもしれない。

「取り残された者たち」は「誰も雇ってくれないのです。」とあんたもその一人なのでしょうと言わんばかりに答え、その場から去ろうとした時である。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。」と思ってもみない言葉が与えられた者たちは顔を輝かせつつ、ぶどう園に行くのであった。

そして、一日の作業が終わり、賃金が支払われる時のことである。ぶどう園の主人は監督に「労働者たちを呼んで、最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」と指示する。支払い額はどの労働者にも「一デナリオン」であったが、このことに「最初に雇われた人たち」が「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中と同じ扱いをするとは。」と不平(問題提起)を言ったのである。

主人はこれを受け止め、「不正なことはしていない。」と弁明した上で、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と熱い思いを語ると同時に、不平を言うものたちに「わたしの気前のよさを妬むのか。」と弱い者に対する思いやりの無さをずばり指摘したのである。

一方、「この連中」と言われた者たちは、「一デナリオン」を受け取り、深い喜びに包まれるのであった。ぶどう園で働くことで、自分の存在の意義を確認し、自分に対する評価を高めることができたのである。

この「神の気前の良さ」が、私たちは自らの存在の意義、意味を確認させ、自己評価を高めさせるのである。そして自分を愛することができるようになるのである。