「一緒に喜んで下さい」★

 
「イエスの招きは、人間を身分や業績の点で区別しないで、すべての人に向けて発せられるという意味で、基本的に開放的であった。」(『新約聖書の諸問題』佐竹明著⒓頁)この「イエスの招き(振舞)」はユダヤの指導層からの反発を受けた。それは「ファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平(問題提起)を言いだした。」とある言葉に現れている。

イエスはこれに「見失った羊」のたとえで応じる。

「百匹の羊を持っている人」が「一匹の羊」を「見失う」。「名前」を付け、共に歩み続けてきた「家族の一員」とも言える羊である。群れの中でしか生きることができない羊が「一匹」となる、それは命の危険にさらされることを意味した。何としても救わなくてはならないとの使命を担い、羊飼いは「荒れ野」に探しに出かける。

羊は元気な状態で見つかるとは限りません。傷だらけ、あるいは死んでいる場合もある。「死んでいる」場合は置き去りにせず、抱えて帰る。そうしなくてはなりません。羊が売りとばされたのではない証拠として持ち帰るのが常だったのである。死なないまでも、傷だらけで、歩けない場合もあったのである。そういう時は、羊飼いは傷を負った羊、約30キロはあると言われる羊を肩に担いで、足場の悪い荒れ野を群れのいるところへ戻るわけである。傷を負った一匹の羊を背負い、道なき荒れ野を、群れまで戻る。羊には名前が付けられているので、羊飼いは、その名を呼び、語り合いつつ、群れまで戻ってゆくのである。見つけ出すのも大変な仕事であるが、群れに連れ戻すことは、ある意味で見つけ出すこと以上にたいへんな仕事だと思う。「傷ついた羊」を抱えて、群れに戻ることができた。どんなにかうれしいことであったろう。

野原に残された99匹の羊や、その羊たちの世話をする羊飼いたち、みんなが待っている。そこに羊をかついで羊飼いが戻って来る。拍手喝さいである。そして、「友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい。」とパーティが開催されるのである。

 このパーティこそが「罪人たち」を招いての食事であり、「神の国(支配)」の祝宴なのである。

 私たち「罪人」は誰もが良き羊飼いである主イエスに探し出され、この祝いの席に招かれている「一匹の羊」なのである。