「弱い時にこそ強い」★

 
「弱さ」とは主が「啓示して下さった事」として語られる箇所。

「啓示」とは神自らが、私たちに対する深い愛の故に、覆いを取り除き示されることである。パウロが自分の伝道者としての働きが「神の啓示」によるものであり、「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」と語る。語られる言葉はキリストに集中さした。

パウロはコリント教会の一部からと思われるが、「過大評価」の対象とされる危険を明らかにしつつ、自らを苦しめていた「肉体のトゲ」について語った。それが具体的にはどういうものかは明らかにされていない。この「トゲ」を「離れさせてくださるように、わたしは3度主に願いました。」と語る。「3度」とは、何としてもこの「トゲ」から自由になりたいという強い願いを示す数であった。この願いはかなえられることはなかったが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と主の言葉が与えられた。主の恵みは「土の器」である私たちに宿るのである。

私たちは自分の健康状態を無視しても仕事に打ち込む人間が高く評価される現代社会の中で「強くなければならない」「頑張らなくてはならない」という価値観に縛られ、それから自由になれず疲れ果てている。ディズニーの「アナと雪の女王」で歌われる「レット・イット・ゴー」の歌詞にあるように「とまどい傷つき、誰にも打ち明けずに悩んで」いる。しかし、その価値観が主の十字架により滅ぼされることで、私たちはそれから自由にされたのである。だが、果たしてその自由を生きているかどうかと問われるとどうであろうか。与えられた自由を生ききれていない自分を知らされる。

パウロは「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と語った。この呼びかけに私たちは応え、自分の弱さを誇るものとなりたい。

キリストの力は弱さの中でこそ、十分に発揮される。だからこそ、「弱い時にこそ強い」のである。