「主よ、御心ならば」★

 
朝早く、「ゴミ出し」をすると、電線にいるカラスが待ってましたと言わんばかりに降りてくる。この「カラス」、ユダヤでは今日のみ言葉のルカ福音書5章に登場する「重い皮膚病」の人と同様に汚れた存在と見られていた。

この「重い皮膚病」に苦しむ人は律法の規定に従い「独り、宿営の外」で生活していた。ある日、イエスが近くの町に来るという情報を得て、居ても立っても居られずに町に入ってゆく。しかし、その場合、これまた、律法の規定により「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い"わたしは汚れた者です。汚れた者です。"と呼ばわらねばならない」。屈辱を思い知らされる。彼が町(「宿営の中」)に入ると人々はできる限り、その人から離れようとし、間違っても「触れる」などということは絶対しない。そうした中で、ただ一人だけ、距離をとらない人がいた。それが主イエスであった。

彼は主イエスの前に「ひれ伏し」、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」これは願いを超えた信仰告白と言える。この告白を伴う姿勢にイエスのみ手が近づいてゆく。目的は「触れる」ためであった。

この行為には病を引き受けること、交わりを創造することという二つの大きな意味があった。イエスが「触れ」、「よろしい。清くなれ」と言われると、「たちまち、重い皮膚病は去った」。イエスの言葉の前に「重い皮膚病」はこの人のもとから去らざるをえなかったのである。

イエスは癒しを終えた後、「誰にも話してはいけない。」と注意を与えた。それは「宿営の中」にもどるための時間をたっぷりとらせるためであったと思われる。その上で「行って祭司に身体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの捧げ物をし、人々に証明しなさい。」と社会復帰するための手続きを示された。「宿営の外」での「独り」の生活から、「宿営の中」で「みんなと共に生きる」歩みが始まるのであった。これこそが「主の御心」の成就なのである。