「聖霊に満たされ」★

 
十字架と復活後に成立したエルサレム教会(小さな集まり)は律法とエルサレム神殿を中心をとするユダヤ教団から、紆余曲折しつつ、脱出してゆく。最初はユダヤ教キリスト派とも言える性格の群れであった。だからこそ、ペトロたちは神殿内での活動(説教)が許されたのであろう。また、弟子たちも決められていた祈りの時間には神殿に行っていた。

教会はエルサレムにおける伝道で多くの兄弟姉妹が仲間として与えられてゆき、そこには

ギリシャ語を話すユダヤ人も多かった。ステファノもその一人であった。教会は大きくなるにつれ、ペトロ、ヤコブなどヘブライ語を話すユダヤ人とステファノたちギリシャ語を話すユダヤ人との間に摩擦を生じてきた。使徒言行録は「日々の分配のことで、仲間(ステファノたち)のやもめたちが軽んじられていた」との苦情を語るだけであるが、伝道方針に対する違いがあらわになってきたことが想像される。

この違いにユダヤ当局は反応し、ステファノは最高法院に告訴された。訴えは二点にあり、一つはユダヤの最高法規である「律法」、今ひとつは「エルサレム神殿」に関することであったらしい。これ対し、彼は演説とも言える説教を語った。アブラハムから始まるイスラエルの歴史を語り、最後に今、ユダヤの民は「心と耳に割礼を受けていない人たち」であり、「聖霊にいつも逆らっている」とまで批判した。

初代教会の新しいメンバーであったステファノは殺害され、彼をリーダーとするグループもエルサレムから追い出される。それを「見て見ぬふり」をせざるを得なかったかもしれない教会は迫害されずに、エルサレムに留まり続けることができた。そうせざるを得ない事情があった。それは復活の主による「エルサレムを離れず」との命令の下に置かれていたからである。ペトロや使徒たちも迫害を受けるが、エルサレムから追放されるまでには至ってはいない。

ステファノの殉教後、彼の仲間たちはアンティオキアで教会を形成する。「このアンティオキアで弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」と使徒言行録は語る。教会は、ユダヤ教キリスト派の群れからの脱出を加速させていった。

今日、教会はキリスト者の群れと言われるが、たえず、そうであるためにいつの時代も様々な「脱出」が求められている。