「賛美の祈りを唱え」★
エルサレムから逃げる二人の弟子を追いかける復活の主の物語。
「主イエスは復活した」という女性の弟子たちの話を残念なことに「たわ言」としてしか受け止めきれない二人の弟子は、「ここにいたら、たいへん」と主を殺害した危険な場からエマオという村に逃げる旅をしていた。二人は道中、十字架から復活に至る「一切の出来事」を話し合い論じ合っていると、「イエスご自身が近づいて来て」何と一緒に歩き始めて下さった。こんなうれしいことはないと思うのだが、二人の目は遮られて「復活の主」に気づくことができない。このような弟子たちを主は見捨てることなく歩みを共にされ、「暗い顔」の二人から話を一生懸命に聞き出す。二人は、イエスとは「行いにも言葉にも力ある預言者」であり、自分たちは「あの方こそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」が、ユダヤ当局はローマに引き渡し、十字架につけてしまったと語った。続けて婦人たちの「イエスは生きておられる」との復活証言が紹介される。
イエスはこの二人に「ああ、物分かりの悪い者たちよ」と言われ、メシアとはどういう存在かを説明される。このやりとりに二人の信仰の眼がゆっくりと開かれてゆく。目指す村に近づき、イエスが「先に行こう」とされた時、二人はイエスを「無理に引き止めので、イエスと共に泊まるために家に入られた。」
「一緒に食事の席についた時」のこと、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え」二人に「パンを裂いてお渡しになった。」すると、二人の目が開け、イエスだとわかったのである。ところが、イエスだとわかった途端、その姿は見えなくなった。
しかし、二人はイエスの復活を確信して、急いでエルサレムへと戻った。仲間たちは「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていた。そして、二人も「道で起こったことや、パンを裂いてくださった時、イエスだとわかった次第を話した。」のである。二人の顔にもはや「暗さ」はなく、輝いていたのではないだろうか。
信仰生活といえども「暗い顔」になりがちな私たちではあるが、復活の主との出会いによる輝きが与えられるのである。