「主がお入り用なのです」★

 
「王」としてロバに乗り神の都エルサレムに入場するイエスの物語。

救いの歴史を切り開き、新しい時代を創造される救い主イエスは弟子たちに「先立って進み」エルサレムを目指す。イエスは「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14:27)と弟子であることの条件をすでに明示されている。このイエスは弟子たちの十字架を覚え、共に担いつつ歩まれる方である。

「先立って進まれるイエス」は「オリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるペトファゲとベタニアについたとき、二人の弟子を使い」として「向こうの村」へロバを引っ張って来いと言われる。しかし、そこはどういう場所であるか、まして「まだ、だれも乗ったことのない子ろば」がその村にあるかわからない。その上、二人の弟子はロバを連れてくる際、イエスとは誰かを明らかにする使命を託される。

それは「なぜ、ほどくのか」と問われた時、「主がお入り用なのです」と答えるということあった。

それは預言者ゼカリヤが「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるロバに乗って。」と預言されているように、イエスとは「王」としてエルサレムに入場される方であることを証することであった。

さて、用意されたロバにのり、イエスは神の都エルサレムに向かう。弟子たちは声高らかに「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と讃美をする。

これに対し「ファリサイ派のある人々」はイエスに「弟子たちを叱って下さい。」と言う。それは祭りの際、エルサレムにはローマを代表する総督が滞在しているので、新しい王の出現を祝うようなエルサレム入場の一団の存在は許されないと思ったからである。イエスはこの忠告に対して「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と明言する。

いよいよ、エルサレムの都が見えた時、エルサレムが神のための都ではなく、ローマに仕えていることを憂い、涙を流すと共に、ろばに乗りイエスが王として都を訪れる時をわきまえようとはしないエルサレムの崩壊を予告するのである。

私たちは神の子イエスが今も救いの歴史を実現されつつあることを、信仰の眼をもって見つめ、主が求める時代を創造してゆく責任を担い続けなければならない。