「主の言葉を聞け」★
主の神殿礼拝者と神殿そのものに警告するエレミヤの預言。
エレミヤは「主の神殿」の礼拝者に神殿の門に立ち「主の神殿、主の神殿」と繰り返す「むなしい言葉に依り頼んではならないと警告する。「むなしい言葉」とならないために「道と行い」を正す必要を語る。それは「お互いの間」で「正義」を行うこと。具体的には「寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことを止めること」であった。エレミヤはイスラエルの憲法とも言える「モーセの十戒」の後半の、社会における人間関係に関する部分を踏まえ、民が「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香を焚いている」実態を明らかにする。
「主の神殿」と興奮して語るエルサレム神殿は、アッシリア帝国の軍隊により包囲され、まさに破壊される寸前にその危機を免れたことがあった。アッシリア軍内の疫病発生によるものと言われている。このことは、参拝者が神殿に入り、興奮して「主の神殿」と語ることと関係するのではないかと思う。
いずれにせよ、エレミヤは神殿礼拝者に、それにふさわしい正義の行いを要求した。それなくしては、礼拝は「むなしい言葉に依り頼む」ことになると批判した。
また、こうした礼拝者の問題点を指摘できない神殿を「強盗の巣」とまで言い切るばかりか、エルサレムの神殿はすでに破壊された「シロの聖所」のようになるとまで警告する。
イエスは「わたしに向かって主よ、主よと言う者が皆、天国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と言われた。エレミヤも「神のみこころ」を示され、「神のみこころ」を行うこと、つまり、それにふさわしい社会的な責任を担うことが必要と語る。
主イエスをキリストと告白する教会に集められる一人一人は、示されるみ言葉を、遣わされた場でいかに受肉化させるか。そうしなければ、「み言葉」は「むなしい言葉」になってしまう。。
今日、教会に求められる「社会的な責任」は多い、そのすべてを担うことは難しいが、ひとつ、またひとつと担うことで与えられみ言葉が受肉してゆくと思う。