「一人一人に」★
イエスが「高熱で苦しむシモンのしゅうとめ」をいやし、その後、多くの病人をいやし、それに対して「わめきたてる悪霊」を戒める話。
「霊の力」に満たされてなされたガリラヤ伝道で、多くの人は諸会堂を中心にイエスの福音にふれ、尊敬の念を抱いた。その中に弟子に招かれる前のシモンたちがいたと思われる。彼らの家には「高い熱で苦しんでいた」しゅうとめがいた。カファルナウムの会堂で「汚れた悪霊にとりつかれた男」のイエスのいやしを目撃した人々なのかもれないが、安息日が終わったので人々はそのしゅうとめのことを早速イエスに頼んだ。
イエスのいやし行為が始まった。「枕元に立って熱を叱りつける。」すると、彼女を苦しめていた「熱」は去って行った。そして彼女「すぐに起き上って一同をもてなした」のである。主が与えた「健康」は他者への奉仕に役立てられてゆく。
また、このもてなしは、安息日が終わった後のお祝いの会食であると思われる。シモンのしゅうとめは病いの間、その席に着くことはゆるされなかったが、いやされたことで晴れて、その席につくことができた。このうえない喜びに包まれて、もてなしに励んだことが想像される。
一方、彼女のいやしを終えたイエスのところには「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちを連れてきた。イエスがそれらの人をひとまとめてではなく、「一人一人に手を置いて癒やされた。」
イエスのいやしは病そのものを治すだけではなく、癒された一人一人に生きていることの意味や価値を実感させていった。それは自分の生を肯定する生き方にもつながっていった。シモンのしゅうとめにとり、それは「もてなし」であった。その奉仕により、他の誰も代わることのできない、かけがいのない自分を回復させていったのである。
私たちは人生においてしばしば本当の「わたし」を失うことがある。その「わたし」を回復させて下さる方こそが主イエス・キリスなのである。