「希求-神の後押し」★

エルサレム教会がユダヤ教の下からキリストの教会になることを目指した、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者ステファノの説教箇所。

復活の主の命令の下(「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」)弟子たちは伝道を展開する。

弟子たちに聖霊が降り、1番弟子とも言えるペトロは神殿の「美しの門」における癒し、神殿内での説教と活動を本格化させる。彼はすぐにユダヤ当局に逮捕され、活動禁止を命じられるが、それに応じない。その働きはますます盛んになると共に、新たな信仰の友が与えら、その中にエルサレムの伝道の新たな担い手とも言えるギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者が生まれてきた。リーダーはステファノと言う。但し、彼とその仲間はエルサレム教会の指導者たちとは異なり、律法や神殿に対してかなり革新的であったこともあり、まもなく当局に告発される。

ステファノは最高法院においてユダヤの最高責任者である大祭司の尋問に実に丁寧に答えてゆく。いきなり本題に入らず「兄弟であり、父である皆さん、聞いて下さい。」と自分は「皆さんと兄弟」であり、敵対関係にある者ではないことを言葉でもって明らかにする。これは和解への呼びかけとも言えるのではないだろうか。

内容は相手が聞き耳を立てたくなるようなものとも言えるユダヤの信仰の歴史の振り返りからであった。信仰の父と言われるアブラハムの話。「栄光の父」により大いなる力で召し出された彼は、「土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け。」との言葉に従い出発したことが語られる。旧約聖書創世記にはそれがいかに困難であったことかを示す数字(「アブラムはハランを出発した時75歳であった。」)にも表されている。

このアブラハムの大変さはステファノが目指していた、ユダヤ教から出てゆくことに似ていた。「わたしが示す土地」とは神殿や律法に縛られない、それらから自由にされた「新しいイスラエル」としての教会であると言える。

初代教会の第一世代はユダヤ人キリスト者であり、別な言い方をすればユダヤ教キリスト派の人たち。それに対して、ステファノは自分たちをユダヤ教の縛りから自由にしようとした。しかし、このことはユダヤ当局にとって許しがたいことであると同時に、エルサレム教会の指導部、つまり、ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者にとり、ユダヤ教キリスト派で行こうと考えていたかもしれない教会の指導者にとってはたいへん迷惑な話であったと思われる。

エルサレムから離れるならば、律法から自由な福音伝道は可能であるかもしれない。しかし、復活の主は「エルサレムを離れず」と命令されている。復活の主が来臨するまでは、とにかく、教会を維持してゆかねばならない。

律法から自由な福音伝道を展開し、ユダヤ当局から迫害を受け、解散を余儀なくされてもいいではないかとステファノらギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者は覚悟を決めていたかもしれない。ところがそうではないヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者とは分裂してゆくのであった。

教会は時として神の後押しを受けて分裂を覚悟で、何かを決断をしなくてはならないことがある。しかし、それは明日の教会をつくるための決断でなくてはならない。

ステファノは神の後押しをうけて明日の教会(律法から自由)につながる道をつくったひとりであった。また、そのことで結果としてイエスとパウロをつないだ人になったのである。