「ただ、主に仕えよ」★

父なる神が「悪魔」を試験官(!?)に用い、神の子イエスの「メシアテスト」を行う話。
イエスがメシアである確認がイスラエル宗教の総本山であるエルサレム神殿で二人の預言者シメオンとアンナにより、バプテスマのヨハネの洗礼の際には「聖霊」により、繰り返しなされた。また、神に至る系図も示され、いわばメシア「証明書」なるものも発行された。そして、いよいよ活動開始の前にメシアテストとも言える悪魔の誘惑を「荒れ野」で3つ(肉体的なもの、権力欲、神を試す)受ける。
「荒れ野」とはイスラエルの民がエジプト脱出後に40年、旅をし、信仰の訓練を受けた場であった。イエスもそこで「悪魔の誘惑」を受ける。主催者は父なる神である。
「空腹を覚えられた」という肉体的な限界状況で「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言われる。「誘惑」はしばしばありがたい申し出のように受け止められる危険をはらんでいる。荒れ野の石ころが「パン」になったら、どんなにありがたいことか。
この「神の子なら」と訳されている部分、ある注解書によれば「もし、あなたが実際に神の子なら」という意味に近いと言われる。つまり悪魔はイエスに神の子の証明として「石をパン」にしてみなさいと誘惑している。
さあ、どうするか。「よし、わかった。それなら、石にパンになるように命じて、パンにして見せよう。そして飢えを解消しよう」とは答えず、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。」と語る。人間が本当の意味で人間らしく生きるためには肉体を養う食物以外の糧である、人を生かす神の言葉が無くてはならないことを明らかにする。
次は政治的とも言える権力欲への誘惑。これはイスラエルの人々がメシアに期待することにつながるものであった。但し、これには「もし、わたしを拝むなら」という条件がついていた。
イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」礼拝すべき方は悪魔ではなく「ただ主」であると答えた。
もうこれで終わりかと思えたが、悪魔もあきらめない。父なる神そのものを試そうとする奇跡を要求してきた。イエスをエルサレム神殿のてっぺんに立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」これに対し「あなたの神である主を試してはならない。」と悪魔も神の下にあることを示して奇跡要求を拒否する。
こうしてイエスは悪魔の誘惑に完全勝利を納められた。
イエスに従う私たちも「誘惑」におそわれるが、どこまでも「み言」に立ち続けるイエスに学び、処してゆきたいと思う。