「神の畑」(子ども祝福合同礼拝)★

パウロがコリントの手紙で語る「私たち」とは「神のために力を合わせて働く者」であり、その働きにより「神の畑」「神の建物」が誕生する。ところが、その「私たち」の間に「ねたみや争いが絶えない」事態が生じる。「絶えない」と言われることに教会の人々の苦悩する顔が想像される。
私たちの人生にも「ねたみや争い」がある。なるべくならば少なくしたいと願うのであるが、むしろ「絶えない」という事態に陥る。どうすればいいのだろうか。あえてそのような状況をつくりだそうとしていないのに、結果としてそうなってしまうことが多い。
コリント教会の場合、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」といわば分派争いが起きていた。この群れに対しパウロは手紙のはじめのほうで「コリントにある神の教会へ」と呼びかける。そうなって欲しいという個人的な願いからではなく、「成長させてくださる神」への絶対的な信頼による。
そうであるからこそ、「ねたみや争いの絶えない」教会を「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」と呼びかけることができる。問題を多く抱えた群れが「神の畑」「神の建物」に成長するのである。
その成長途上には多くの難題がある。「争い」もそのひとつである。これは今日、自動車ドライバーを悩ます「渋滞」に似ているが、ここから抜け出すための「渋滞抜け道道路地図」なるうれしい本がある。
コリント教会の「争い」は成長を妨げるこの「渋滞」に似ていると思う。しかし、この「渋滞」で立ち止まる時、「抜け道」つまり「逃れ道」も用意されている。
この「立ち止まり」は、神の前に呼び集められる「礼拝」の時である。主の日のルーツである「安息日」という言葉は「中止する」という動詞からできた言葉である。「中止する」「立ち止まる」時に神が示して下さる「逃れ道」に気づかされ、「争い」から脱出し、「神のために力を合わせて働く者」とされ、「神の畑」づくりに励みつつ、「神の教会」をめざすのである。
人生の途上で避けられない多くの「争い」に遭遇し、「立ち止まり」、神の前に立たされていると受け止める時、「脱出」する道(「逃れ道」)が示されるのである。その道を進むことでわたしたちは神により「成長」を与えられる。