「神に至るイエス」(教会創立記念日)★

創立記念日にあたり、イエス・キリストに導かれて歩み続けてきた123年の本所緑星教会の歴史に感謝しつつ、「神に至る」イエスの系図に示された神の深い愛の物語。
イエスが「およそ30歳」で、ガリラヤで宣教を始められたとき、イエスとは「ヨセフの子」であり、神の子と思う者はいなかった。それは主に捉えられる前の私たちの姿にも似ている。
ルカ福音書のイエスの系図はそのような者たちをキリスト告白へと導いてくれる。ここには実に多様な人たちが登場するが、私たちは罪を犯し楽園から追放されたアダムである。
創世記によれば彼は「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16)と命じられたにも関わらずに、「善悪の知識の木」から取って食べてしまい楽園から出なくてはならなかった。
しかし、この罪人アダムを含む系図に記された人は全部で77人。「7」は聖書だけでなく、古代では聖なる数。「77」とはその聖が繰り返される。ここからアダムは除外されていない。
イエスは罪を十字架で贖われる救い主だからこそ、罪人アダムは招かれ、加わることが許されたのである。このアダムが加えられることは、私たちも罪人としてこの「77」の系図に招かれていることを意味する。
ルカ福音書は深い神の愛によるこのような招きを十字架物語にも記している。
イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人が、「おまえはメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ。」とイエスをののしったその時、もうひとりの犯罪人が彼をたしなめて次のように語る。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と、十字架のイエスを弁護する。その後、イエスに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい。」と願う。イエスはこの罪人の願いに応え、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と、それはアダムでもある十字架上の罪人を「楽園」へと導くのである。
神に至るイエスは、私たち罪人を神のもとへと導く神の子なのである。このことを知らされた時、誰もが「イエスはキリストである」と告白するのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

12 + 18 =