「死んでも生きる」(召天者記念礼拝)★

「召天者記念礼拝」はキリスト者が地上の生涯で与えられた神の恵みを思い起こし、記憶し、感謝の祈りを捧げる時。
示された箇所は4つの福音書で唯一、人間の復活が語られるヨハネ福音書の「ラザロ」の物語。
ラザロとは「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった」女性の兄弟であり、また、姉妹たちがイエスのもとに人をやった際、「あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と言わせた言葉から、主イエスと深いつながりのある存在であった。
愛する者の死に至る病の時、私たちは一切を中断して駆け付けるが、イエスはそのようなことをなさらず、使いの者に「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」とその意味を明らかにされ、兄弟姉妹の村、ベタニアに行こうとはせず、「なお、二日間同じ所に滞在された。」イエスの言葉と振る舞いを理解する者はいない。
二日の後、弟子たちに「もう一度、ユダヤ(ベタニア)に行こう。」と呼びかけるが、彼らがそこは「つい、この間もあなたを石で打ち殺そうした」ユダヤ人がいるため、「また、そこに行かれるのですか」とイエスに止めるように提案する。しかし、イエスは「わたしは彼を起こしに行く」と出発する。
目的地であるベタニアに到着すると、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」。姉のマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」とイエスに語り、続いて「しかし、あなたが神にお願いになることは何でもかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とイエスとは死に勝利される、父なる神のみ子であると信仰の告白をする。
これに応えるかのように、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と宣言する。しかし、マルタはそれを「終わりの日の復活」であると誤解してしまう。そこで、イエスは彼女に信仰の問いかけをする。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」。マルタはイエスとは神の子、メシアであると答えた。
これはイエスとは闇の世に勝利された光の子であり、「生きているのは名ばかりで、実は死んでいる」(ヨハネ黙示録)私たちを「死んでも生きる」存在へと変えてくださる方であることを証している。私たちは「墓に葬られて既に四日もたっていた」ラザロである。しかし、「三日目」によみがえられた復活の主に続く、「四日目」のよみがえりを与えられた存在なのである。