「神の僕」★

エレミヤの預言に耳を傾けない民に、神はバビロン王ネブカドレツァルを僕として審判を下すと語る箇所。
「ユダの王、ヨシアの子ヨヤキムの第四年」はエレミヤの生涯にとり重要な意味を持つ年であった。この年、後に南ユダ王国を滅ぼすバビロン王ネブカドレツァルが就任したからである。
エレミヤは預言者としての召命を受けた年から「23年」の間「主の言葉」を「倦むことなく」語り、ヤーウェに「立ち帰り」を求め続けたが、ユダの民は「耳を傾けず、従わなかった。」
ユダの民は「他の神々」「手で造った物」などに従うという宗教的な悪行(偶像礼拝)をエルサレム神殿内で行い、神を怒らせた。
列王記には「主はかつてエルサレムにわたしの名を置くと言われたが、その主の神殿の中に彼は異教の祭壇を築いた。~主の神殿の二つの庭に天の万象のための祭壇を築いた。彼は自分の子に火の中を通らせ、占いはまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。彼はまたアシュラの彫像を造り、神殿に置いた。」(21章)とその実態が明らかにされている。
これに対して、神はユダを罰するため、ネブカドレツァルを「わたしの僕」として用いるとエレミヤは語る。また、一方、「70年の間」(捕囚期間)が終わると、「バビロンの王とその民」の地を「罪のゆえに罰する」とも語る。神が世界の歴史の真の支配者であると言うわけである。
こうした活動により、エレミヤはエルサレム神殿内への立ち入りを禁じられたのであるが、書記のバルクに書きとらせ、エルサレムの民衆に読み聞かせた。それだけでなく、後代の歴史においてエレミヤの言葉は繰り返し朗読され、ユダの罪とは何であったか、歴史の支配者は誰であるかを学ぶことで、国家の危機に対応する文書となってゆくのであった。
いずれの時代、どの国においても、為政者は過ちを犯し続けてきた。これからもそれは繰り返される。その際、私たちは預言書の学びを通して、問題を把握できる信仰者でありたい。