「真実な証」★
ヨハネ福音書だけに登場する「イエスの愛しておられた弟子」を今一度紹介し、その弟子の証が真実であると語る。
神の栄光を現わす目的をもってイエスに従うペトロが振り向くと「イエスの愛しておられた弟子」がついてくる。福音書は「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、"主よ、裏切るのは誰ですか"と言った人である。」と説明する。
ペトロは「この人はどうなるのでしょうか。」と尋ねる。自分のほうがイエスに近いことを確認したかったのか。イエスは、他の弟子のことよりも「わたしに従いなさい。」と語る。
このイエスとペトロのやりとりで、「愛する弟子は死なない。」という噂がひろまる。弟子たちの中にはペトロ同様に、その弟子のことを気にする人がいたと思われる。
そして、「わたしが来るとき(再臨)まで、彼が生きている~。」と繰り返される主の言葉はペトロだけでなく多くの弟子に衝撃を与えたことだろう。その日がいつだかわからないが、それまで生き続けることができるかどうかは弟子たちにとって大きな問題であったからである。
最後に「これらのことについて証」をし、かつ書いたのはこの弟子であり、彼の証が真実であると言われる。弟子たちは真実な証に生きることが求められているのである。
現代の多くの人は「良い説教」よりも、「真実な証」を求めているのでないだろうかと思う。説教がどうでもいいというのではないが、「真実な証」が教会に求められている時代であると思う。その証が真実であるためには、そこでキリストの十字架と復活の恵みと父なる神の主権が証言されねばならない。また、証人は証の器にすぎない。パウロはコリントの手紙で「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」と語る。
ペトロも「イエスの愛しておられた弟子」も一つの「土の器」としての証人なのである。教会とはこの証人の群れなのである。