「福音の真理」★
パウロとペトロが衝突する「アンティオキア事件」と呼ばれる箇所。「福音の真理」とは何かが浮き彫りにされている。
ステファノの殉教から始まる迫害により、エルサレムから追放されたキリスト教徒たちの伝道により設立されたアンティオキア教会は律法から自由な福音伝道に励み、異邦人にも門戸を開き活発な活動を展開していた。やがて、回心したパウロがこの教会に加わり、バルナバと並ぶ代表となる。
この教会にエルサレム教会の関係者がやってきて、異邦人の入信に際して「割礼」を施すことを要求した。そこで両教会が会議を開催し、エルサレム教会の指導者たちは、アンティオキア教会の異邦人伝道も神の働きによるものであることを承認し、双方は協力を約束した。
ところがユダヤの反ローマ感情の高まりが加速しはじめつつある中で、律法に対する熱心を疑われていたユダヤ在住のユダヤ人キリスト者は無用の嫌疑を受けないための細心の注意を払っていた。そのような時、アンティオキア教会のユダヤ人キリスト者が異邦人と親しくしているという噂が広まれば、それはエルサレム教会にとり、その存立を危うくしかねない事態を招く恐れがあった。そこで「ヤコブのもと(エルサレム教会)からある人々」がアンティオキア教会にユダヤ人信徒に行き過ぎがないように牽制しにやってきた。その際、エルサレム教会の元代表であるペトロとアンティオキア教会代表バルナバはそれまで行っていた異邦人との会食を取りやめた。この二人の行動に「ほかのユダヤ人も(教会全体)」同調した。つまり、アンティオキア教会のすべてのユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者との共同の食事を打ち切ったのである。
そこでパウロは「ケファ(ペトロ)がアンティオケに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」しかし、ペトロはユダヤ人キリスト者の安全を考えての現実的な判断を撤回することはなかった。また、バルナバを始めアンティオキア教会も同様であった。
このことでパウロとアンティオキア教会の間に亀裂が生じ、修復はできなかった。パウロは律法からの自由な福音伝道を前進させるため、アンティオキア教会と袂を分かち、独立伝道に出発する。
「使徒パウロ」佐竹明著によれば、
「パウロがペトロやアンティオケ教会の他のユダヤ人キリスト者同様、ヤコブの下から来た人々の要請に従っていたなら、アンティオケの衝突が起こらず、しかし、彼のキリスト教は実質上ユダヤ教の一分派に逆戻りしたはずである。衝突は初代教会の中に深い亀裂を生み、それの修復は周囲の事情もからんでついに成功はしなかったが、しかし、他方でそれは結果から見てキリスト教全体の脱ユダヤ化に少なからぬ貢献することとなった。アンティオケの衝突はその意味で、初代の教会史上の大きな転換点であった。」(164頁)
この「アンティオキアの衝突」は今日の教会に「キリストの福音の真理」に立脚し「まっすぐ」に歩むことを求めている出来事である。