「舟の右側に網を」★
ヨハネ福音書21:1-14
キリストの十字架・復活後の弟子たちの伝道がティベリア湖での漁にたとえられ語られている話。
リーダー格のペトロが「わたしは漁に行く。」と語ると「わたしたちも一緒に行こう。」と弟子たち全体がペトロと共に出発する。伝道は特定の一人の業ではなく、みんなが関わることであることが示される。弟子たちが向かった場は夜の海であり、漁は困難をきわめ、結果として「何もとれなかった。」が、心身共に疲れた身体を引きずるようにもどって来た弟子たちを待っていた方がおられた。それが「既に夜が明けた頃」に「岸に立っておられた(待っていた)」イエスであった。
弟子たちはイエスを発見し、近寄ってゆき、不漁を訴えるのかと思えたのだが、「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」途方に暮れている故、その眼差しが曇っていただろう。そのような弟子たちにまず声かけたのがイエスであった。
「子たちよ、何か食べる物があるか。」これは何も食べる物はないことを、つまり、弟子たちに自分たちの貧しい状況を確認させたわけである。答えは「ありません」。あるがままの現実がさらけ出される。しかし、そこから、重たい現実を打ち破る神の業が始まる。「無(ピンチ)」から「有(チャンス)」の創造である。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」「右」は幸運を与えてくれる方向。この言葉は「神と共にある」。弟子たちは即座に従い、右側に網を入れた。すると「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」神の恵みが顕となる。その時、「イエスの愛しておられるあの弟子」がペトロに、「主だ。」というと彼は湖に飛び込み、姿を消してゆく。教会がペトロ後の時代にあることを暗示している。
「あまりにも」多い魚は「153匹」。恵みの果実は数えて確認することができる具体性を持つ。
この果実を味わう「朝の食事」が始まる。「イエスが来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」新たな始まりの朝であった。
私たちは人生という海で、「何もとれなかった。」という現実にいつも押しつぶされそうな存在である。しかし、そのような私たちを主は「岸に立って」待っていて下さり、恵みを約束する「右側」を示して下さるのである。信仰においてその方向を知り、恵みをしっかりと受け止めたいと思う。