「枯れた骨の復活」★

旧約聖書エゼキエル書37章1節~14節

バビロニア帝国により「枯れた骨(滅亡)」とされた「イスラエルの全家」復活メッセージ。
古代オリエントにはあまり例の見られない500年という長きにわたり続いたダビデ王朝がバビロニアにより終止符を打たれた。エゼキエルはエルサレム神殿に仕える祭司であったが、バビロンへ「捕囚民」として連行された後、預言者としての召命を受けた。
エゼキエルは「イスラエル全家」再生をイメージできる幻(「枯れた骨の復活」)を示された。彼に「主の手」が臨み、「主の霊」により「枯れた骨」が散乱する谷へと連れてゆかれる。
そこで「これらの骨は生き返ることができるか。」と問われる。「できる」でも「できません」でもなく、「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」と神の全能に望みをかけた。「そこで」「これらの骨に向かって預言」するように言われた。
「枯れた骨」の復活物語が始まる。まず「カタカタ」と音を立て、「骨と骨」が近づき、その上に「筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆った。」肉体の完成。次に「霊」が吹きつけられ「枯れた骨」は「生き返って自分の足で」立ち、「非常に大きな集団」となった。
この幻が示された後、捕囚の民が絶望している状況が紹介される。「我々の骨は枯れた。我々の望みは消え失せ、我々は滅びる。」
この言葉を裏付ける出来事のひとつを捕囚の民は目の当たりにしていた。それはユダ王国の最後の王の姿であった。「彼らはゼデキアの前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足かせをはめ、彼をバビロンに連れて行った。」(列王記下25:7)ユダの民はこの光景を見て、"もう終わり"と受け止めたと思う。それはまたヤーウェの神がバビロンの神に負けたとも受け取られてしまうことでもあった。
そこで神はエゼキエルにさらなる幻を示された。墓の中に置かれているような状況にある捕囚の民に、「墓の中から引き上げ、イスラエルの地に連れてゆく。」という希望が与えられた。
捕囚時代初期の預言者エゼキエルは、死者の復活の比喩により、死に瀕した民族の再生預言を展開したのである。それは自分たちの民族に対する誇り、自信の回復であった。
私たち、息はしていても「枯れた骨」のようになることがある。新約聖書の最後の文書ヨハネ黙示録に「生きているのは名ばかりで、実は死んでいる。」(3:1)とあるような状態になることがよくある。しかし、主はその都度、私たちひとり一人に新しい霊を吹きこみ「生き返る」存在として下さるのである。