「主を見て喜んだ」★

ヨハネ福音書20:19-23

復活の主から祝福(「平和がありますように」)を受け「聖霊」を与えられた弟子たちの再生物語。
弟子たち(男)はマグダラのマリア(女)より復活証言を得ているにも関わらず、それを確認した後、再出発を整える準備を始めず、「ユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」。その身に危険が迫っていたからであった。弟子たちは「出口のない」集団に陥っていた。
ユダヤ当局は自分たちの政権運営に異議申し立て行動を展開するイエスを十字架にかけて始末した。次はその弟子たちに対する攻撃であったと想像される。そのような当局の動きを察知した弟子たちはエルサレム市内のある家の戸に鍵をかけ、「次は自分たちの番かもしれない」と恐れつつ身を潜めていたわけである。時は夜の闇が迫りつつある「夕方」であった。弟子たちの中にはこの危険がひとまず収まったなら、エルサレムから早く退散し、故郷で身を隠して生活しようと考えていた者たちも多かったはずである。
そのような不安に打ちひしがれていた弟子たちの「真ん中に」に復活の主が立たれ、「あなたがたに平和があるように」と宣言された。しかし、祝福の言葉だけでは不十分であると判断された主は「手とわき腹をお見せになった。」十字架のイエスのいわば「見える化」がなされた。この段階で弟子たちは初めて「主を見て喜んだ。」のである。十字架のイエスと復活の主が同じであることを確認したからである。
復活の主により整えられた弟子たちに2度目の祝福の下、使命が与えられた。それは子なるイエスが父なる神に派遣されたのと同様に弟子たちが世に遣わされることであった。また、それは世にあって主と弟子たちがいつもひとつであることでもあった。
この使命を担う新しい器となるために弟子たちは「聖霊」を受けて「再生」され、罪を赦す権能を与えられ「戸」の外の世界へ出発する態勢を整えるのであった。
主の日に集められる私たちも「夕方」「家の戸に鍵をかけている」弟子である。しかし、復活の主が中心に立たれることで「出口」を示され、聖霊を与えられ、再生されるのである。その歩みはいつもsmall startであるが、主はそれをbestにしてくださるのである。