「十字架-成し遂げられた」

復活の主と共に歩む弟子に繋がる十字架物語。
イエスは十字架上で「すべてのことが成し遂げられたことを知り」、「渇く」と言われた。それはイエスを信じる者の内から「生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)「いのちの水」を与えるという地上における神のみ業の完成、成就であった。そのことが息を引き取る直前に確認された。
 また、いよいよ最後の時、十字架の番をする兵士たちの眠気をさます「酸いぶどう酒」が、彼らの遊び心でイエスに差し出された。それを拒否することもできたであろうに、イエスはあえて受け取り、「成し遂げられた」と地上の働きの終わりを宣言された。最後まで罪を引き受けられ、その使命を完成されたのである。
 そして、「特別の安息日」の前、ピラトの許可の下でなされた遺体の取り降ろし作業でイエスと共に十字架にかかっていた二人の男は足を折られ、絶命した。イエスの番になると「すでに死んでおられた」のでその作業の必要はなくなった。イエスとは「過ぎ越しの祭り」で捧げられる羊、つまり、「世の罪を取り除く神の小羊」であることが明らかとなったわけである。なぜなら、祭りで使用される羊は「その骨を折ってはならない。」と規定されているからである。
 その後、復活物語の準備をする人たちが登場する。ひとりは「アリマタヤ出身のヨセフ」、いまひとりは「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」。ヨセフは、ルカ福音書によれば、エルサレム最高会議のメンバーで「同僚の決議(「イエスの十字架」)や行動には同意しなかった」だけでなく、イエスの弟子であった。しかし、そのことは「ユダヤ人たちを恐れて隠していた。」しかし、今や、恐れずイエスの遺体の取り降ろし作業をピラトに願い出たのである。許可がおり、取り降ろされた後、ヨセフの同僚でもあるニコデモが「没薬と沈香を混ぜた物」を持ってきた。二人は協力して、イエスの遺体を受け取った後、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」その作業は本来はユダヤ人の王に対してなされるもので、イエスとは誰かを証する行動となった。王として整えられたイエスには「新しい墓」という、復活物語の舞台も準備されていた。イエスとは「復活」であり「命」であることが明らかとなる。
 このイエスを信じる者は「死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(11:25-26)このことを信じ、死ぬことのない歩みを創造する「永遠の命」に生かされるものでありたい。