「自ら十字架を負い」

聖書-ヨハネ福音書18:16-26

イエス自ら十字架を負う物語と十字架のそばにいるローマ兵と弟子の話。
ヨハネ福音書が語るイエスは自らを「良い羊飼い」として、「自分でそれ(命)を捨てる。」と語った。この、いわば予告とも言える言葉の通り、ゴルゴタの丘まで十字架を負って行った。それは「命(復活)を再び受けるために、捨てる。」(10:17)ことであった。
 この十字架刑の最終決定を下したローマのユダヤ総督ピラトはその罪状書きに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記した。それは宗教用語である「ヘブライ語」、行政文書に使う「ラテン語」、世界共通語の「ギリシャ語」で書かれた。「ナザレのイエス」が「ユダヤ人の王」つまり、メシアであることが全世界に向けて発信されたことを意味した。
 この罪状書きに「ユダヤ人の祭司長たち」がクレームを付けた。それは「この男は『ユダヤ人の王』と自称した。」と内容を変更する要求であった。ユダヤ当局は繰り返し求めたが、ピラトは首を縦に振ることはなかった。イエスが「ユダヤ人の王」であることが確定したわけある。
 それは続く兵士たちの話でも明らかとなった。十字架にかかるイエスの服をはぎとり「四つに分け、各自に渡るようにした。」後、「下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。」そのようなものはユダヤの最高指導者である大祭司が着用するものであり、イエスが神に仕える人であることが明らかにされたことになる。
 兵士たちと共に、十字架のイエスのそばには、「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた」。4人の女性は最後までイエスと共にあっただけでなく、やがて、復活の最初の証人となる。さらに、この4人のうち、母マリアを自分の家に引き取る「愛する弟子」もおり、その家が十字架後の宣教の出発地になることが暗示されている。
 ヨハネ福音書が語る十字架の場面には、ここにもあそこにも、十字架は終わりではなく新たな始まりであることが語られている。
 私たちの人生、もうこれで終わりかもしれないという「十字架の時」がある。しかし、それをイエスに従う課題として受け取り直すとき、新たな始まりが与えられ、わたしたちの内におられるキリストにより生かされる時となる。