「祈りが聞かれるとは何か?」(佐藤孝浩神学生)

ヘブライの手紙5章7節

教会生活を始めて以来、気が付くと祈っていました。しかし、その祈りは、何のために祈りを捧げていたのでしょうか?私たちは、もう一度、信仰の原点に立ち戻って考える必要があると、思っています。
 自己実現達成のための祈りでは、なかったでしょうか。現実には、祈りが聞かれることはないと思っているのも多くの人が、感じているのではないでしょうか?
 主イエスでさえ、「ゲッセマネの祈り」において、祈りは聞き入れられなかったのです。そんな中、私たちの祈りが、聞かれるとは何か。しかし、私たちの信仰の中では、苦難・悲惨・喜びの時は、いつでも、主イエスはそこにいる。また、私たちの行く先には、必ず、主イエスがいる。これを実感することが肝心である。私たちは、どんな時も一人ではない。孤独ではないのです。だから、主イエスを信じる者は救われるのです。それは、主イエスは、すべてを父に委ねて、構わないという(従順)。主イエスの死に対する恐怖に動機づけられた祈りは、主イエスが、喜んで選び取った従順なのです。これは最初からあったものではありません。ヨハネ福音書「わたしはブドウの木」と言われるように、主イエスが、天にいるのではなく地から養分を吸い取って生きるのが、「ブドウの木」だと言うのです。だから、主イエスは、この地上における苦しみ・悲しみ・喜びの一切を吸い上げてくださる。だから、主イエスは、私たちのすべてを知っている。ひとりではないのです。主イエスと共に、安心して、信仰生活の第一歩を、新たに踏み出そうではありませんか。