「新しいこと」

旧約聖書 イザヤ書43:16-19

イスラエルの復活とも言えるバビロン捕囚からの解放を「新しいこと」として語る預言者イザヤの言葉。
捕囚民の中で知識人であった第2イザヤの著者は、古代中近東世界において、バビロンがそう遠くない将来、ペルシャに滅ぼされ、イスラエルは解放されると展望していた。
 地上における「神の家」である神殿とそれを擁する神の都エルサレムの崩壊はイスラエルの神がバビロニアの神々に負けたというイスラエル史の「十字架」と言える大事件であった。しかし、神の民の復活を確信するイザヤはイスラエルの原点である「出エジプト」を振り返り、イスラエルに「新しいこと」が起こる希望を語る。それは「第2の出エジプト」と言える。
まず、第一の出エジプトが語られる。「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず。」エジプトを脱出したイスラエルの民はエジプトの「強大な軍隊」に追われ、大きな海の前に立たされるが、神はモーセに「杖を高くあげ、手を海に向かって差しのべて海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いたところを通ることができる。」と救いの言葉を与える。これに従うことで「イスラエルの救い」が実現した。しかも、神は「彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた~。」ことで今後、エジプトの脅威にさらされることがないという絶対的な安心を与えた。
 ところがイザヤはこのことをあえて「思いだすな」と語り、神がバビロン捕囚の民に「新しいこと」を行うとの約束を語る。それは「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」こと。具体的にはバビロンが滅ぼされ、イスラエルが捕囚から解放されることを意味した。この実現のため、神はペルシャの王キュロスを道具(「主が油注がれた人」45:1)として用いると語る。そのように解釈する理由がヤーウェこそ唯一の神であるという信仰であった。(「わたしは主、ほかにいない。わたしをおいて神はない。」45:5)
 しかし、この段階でイスラエルは「拝一信仰」、つまり、ただひとりの神を礼拝するが、ほかの民族にはほかの神々があることを認めるため、イザヤの語る「唯一信仰」を受け入れることが難しかったようである。また、捕囚から解放されるという「新しいこと」を信じることができなかった。
 この拝一信仰の壁を破り、誰もが信じる唯一信仰はイエス・キリストにおいて、誕生し、出発した。その唯一信仰をパウロが「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分な者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリストにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3章)と語っている。民族、社会的身分、女と男の区別などが取り払われ、誰もが信じることをゆるされる神、主イエス・キリスト。ユダヤ人でなければ、ギリシャ人でなければ信じることができない神ではない。自由人でなければ、男でなければ信じてはいけない神ではなく、誰もが招かれている。それがイエスであった。招かれた者はイエスの中に唯一の神を発見するのである。
 イザヤが語る「新しいこと」が主イエスにおいて始まり、イエスに従う誰にでも起こる出来事となるのである。