「旧約聖書を学ぶ会」が行われました。
2月9日の学ぶ会ではイザヤ書64章を取り上げました。イザヤ書終盤、クライマックスの盛り上がりを見せる箇所であります。
63章7節から続くこの「とりなしと嘆き」の祈りは、預言者が自らをイスラエルの民と同一化して祈るという特徴があると言われています。
イスラエルの罪が神によるものではなく、イスラエルの責任において犯されたものであると認めた上で、神の奇跡的救いを求め、祈り続けます。
この箇所の大きなポイントは二つあると感じました。一つ目は「祈りの大転換」、二つ目は「神の沈黙」です。
「祈りの大転換」については、6節と7節の間で見ることができます。それまで自分たちの罪を振り返り、その罪のために堕落してしまった「わたしたち」を嘆く祈りが続いています。
しかし7節からガラッと変わります。主の偉大さを、「陶工」の例えで表現し、その恵みを求める祈りへと移ります。
この大転換はなぜ起きるのでしょうか。単に「信仰のおかげ」とするのか、「聖霊の導き」とするのか。はっきりした答えは分かりません。
しかしこの箇所は、神にすがることしかできない私たちにとって、大きな意味を持っているように思えます。みなさんは、どう思われますか。
二つ目の「神の沈黙」は最後の11節です。上記のように祈りの大転換を経た後、「それでもなお、主よ、あなたは自分を抑え黙して、わたしたちを苦しめられるのですか」という言葉で64章は終わります。
「神の沈黙」は大きなテーマです。本当に神は沈黙しているのか、これに対しどうお答えになるのか。人間の切実な祈りが65章の神の応答へとつながっていきます。次回をお楽しみに!
参考:「新共同訳 旧約聖書略解」 日本基督教団出版局
「新共同訳 旧約聖書注解」 日本基督教団出版局
P.D.ハンソン 1998『現代聖書注解 イザヤ書40-66章』(北博訳) 日本基督教団出版局
R.D.ワイブレイ 2012 『ニューセンチュリー聖書注解 イザヤ書40-66章』(高柳富夫訳) 日本キリスト教団出版局
高内享 2000 『イザヤ書を読む』聖恵授産所出版部